モデルでデザイナーのマリエが、かつて「枕営業」を強要されたことを告発した問題。マリエがインスタグラムで語ったところによれば、マリエは、まだ18歳だった15年ほど前、打ち上げの席で島田紳助から性的関係を強要する趣旨の発言があり、同席していた出川哲朗、お笑いコンビ・やるせなすも「やりなよ」などと島田の発言に同調していたというもの。
このマリエの告発は、ネットでは直後から「#マリエさんに連帯します」というハッシュタグが多数リツイートされるなど大きな話題になっており、告発されたひとり出川はCMが放送中止・動画削除されるなどテレビから姿を消している。
ところが、マスコミとくにテレビのワイドショーや報道番組では、まったくと言っていいほど、この問題をまともに取り上げていない。性的搾取とパワハラという重大な問題にもかかわらず、なんの検証も議論もせずうやむやなまま、ただ臭いものに蓋をするように問題そのものを隠す方向にいってしまっているのだ。
出川ややるせなすは論点をずらしたようなごまかしコメントでやり過ごしほとぼりが冷めるのを待つのでなく真摯な説明をするべきだし、引退したとはいえ、当時、芸能界において圧倒的な力を持っていた島田紳助もきちんと説明をするべきだろう。
しかし、今回の件でもうひとつ気になることがある。それは、先述したように、出川が今回の問題の影響でCMが一気になくなるなどしているのに対して、出川が告発される言動とほとんど同様の発言を公然と行った大物芸人が、まったく責任を問われていないことだ。
ほかでもない松本人志だ。当時リテラでも報じたが、松本人志は、2年前、指原莉乃に対し「お得意のカラダを使って」と発言したことがある。
2019年1月13日放送『ワイドナショー』で、当時問題になっていたNGT48山口真帆への暴行事件について議論するなかでのことだ。指原は真摯に運営批判を語っていたのだが、古市憲寿と松本が「指原がトップに立てばいい」などと茶化し、それに対し指原が「トップに立つのは現状、おじさんたちっていうか……偉い人が仕切っても何も出来ない状況じゃないですか。私が立っても何も出来ないと思うんです」と否定したところ、松本はこんなことを言い出したのだ。
「まあ、でもそれやったら、お得意のなんかカラダを使ってなんかするとかさ、そういうやり方……」
指原は「何、何言ってるんですか! やばっ」と反論したが、古市も「指原さんがトップって説得力あるんじゃないですか。だって、だって、こんな感じでトップにいけたわけですよ、AKBでは」と揶揄し、松本を諌めることなく同調していた。
東野幸治からツッコミが入り、松本はようやくまずいと思ったのか、「違うよ。指原への期待がこれだけ大きいってこと」などとごまかしていたが、「お得意のなんかカラダを使ってなんかする」というのは、けっして見過ごせる発言ではない。
そもそも“女はカラダを使って出世”などというのは、昔から男社会で、働く女性を攻撃するときに使われる差別発言の典型だ。その発言の底に流れているのは、「女は男より無能で劣っている、にもかかわらず社会進出や出世をしたのは “女性を武器”にしたからに違いない」という二重の偏見であり、こうした考えこそが女性の権利を奪い、社会進出を阻んできた。
松本のミソジニー発言は本サイトでも繰り返し指摘してきたが、この「カラダを使って」発言は、松本の女性差別的な言動のなかでもとびきりひどい。繰り返しになるが、女性に面と向かって、しかも、男性による暴力問題への対応を深刻に訴えている女性に対して、「カラダを使ってなんとかしろ」と差別暴言を吐いたのだ。普通に考えれば、「セクハラ」として一発アウト、大問題になる。
松本の指原に対する発言は単なるネタで、実際に性的関係を強要したわけではないと松本を擁護する人もいるかもしれないが、その場に性行為の相手がいるかいないかの違いだけで、出川が告発されている言動と松本発言は本質的になんら変わらない。
ところが、松本のこの「体を使って」発言はSNSで大炎上したものの、マスコミではほとんどスルーされた。SNSでは「“体を使って”発言はさすがに引く」「よく放送したな」「冗談でも完全にアウト」など批判の声が多数投稿されたが、ネットメディアやスポーツ紙は、松本の別の発言を紹介するばかりで、“カラダを使って”の女性蔑視発言を問題視したのはごくわずかだった。
松本をめぐってはつねに、こういう構造が付いて回っている。松本がひどい差別的発言や暴言を吐いて、SNSなどネット上で問題視されても、マスコミは松本の発言を批判したり、「舌禍事件」「差別発言」として大きく取りあげたりしないのだ。
その結果、松本は出川とは対照的に、バラエティもCMも何食わぬ顔で出演し続けているのである。
いや、それどころか、松本はこの“体を使って”発言について、反省も撤回もしていない。
SNSの批判を受け、翌週の『ワイドナショー』で松本はこの発言について釈明したが、「鬼のようにスベっていたから。鬼のようにスベったら、逆に恥ずかしくて(カットしてくれと)言えない。あれだけスベっていたら早く家に帰りたいと。だから言えなかった」とカットしなかった問題に矮小化したあげく、「無口なコメンテーターという新たなジャンルを切り開きたい」「炎上はこの先もしていくと思う。仕方ない。炎上で得られるものもある。その大火事になったときに大切なモノが見えてくる。持ち出さないといけないものもわかる」とまるで自分が理不尽な炎上の被害者かのようなことを言うだけだった。
しかも、松本はその後も、セクハラ被害者バッシングやコロナ給付金でのホステス・風ぞく業差別など、様々な話題のなかで女性差別発言を繰り返してもいる。
松本は3月28日放送回で、例の『報道ステーション』の女性蔑視CM動画について取り上げた際も、「ジェンダーのことでグワッて言われたら、謝るしかないというこの状況は絶対によくない」「現に僕もジェンダー問題をあまり語りたくないみたいな気になっている」とバックラッシュ的発言をしていた。
「グワって言われたから、とりあえず謝った」だけで(実際には謝ってすらいないのだが)、「ジェンダー問題をあまり語りたくない」と議論や反省を拒否したままなのだ。
もっとも、セクハラの加害者でありながら、あたかも過剰なポリコレの被害者になっているかのようなこうした倒錯した意識は、テレビやお笑い芸人の世界に共通するものだ。
今回も、マリエの過去の言動をほじくりかえして、あたかも今回の発言が彼女の「被害妄想」であり、出川がまるでその被害者であるかのような論調の記事も多数、見受けられた。
だが、マリエに告発されたやるせなす・中村豪が枕営業の話をしたことを否定しつつも、「確かにその日、ソファ席で下ねたを話したし、席にマリエさんがいたことも覚えている」と証言していることを考えると、マリエが「性的関係の強要」と受け取ってしまうような発言があった可能性は高い。
にもかかわらず、セクハラを“下ねた”としか認識せず、それを告発する女性に対して、「冗談がわからない女」「被害妄想」と攻撃する──そういう意味では、いま、おきているマリエへのバックラッシュ的な揶揄こそが、この国の社会のミソジニー的価値観の象徴といっていいだろう。
そして、こうした価値観を増幅させてきたひとりが、松本人志なのである。実際、「枕営業」という言葉も、日本のバラエティ番組ではしょっちゅうネタにされてきたが、松本も度々ネタにしてきた。たとえば、2018年12月の『THE W 2018』(日本テレビ)の副音声で「敵わないと思う女芸人は?」と問われ、「枕営業をする女芸人」などという趣旨の回答をするなど、様々な番組で「枕営業」を示唆するような発言をしている。
しかし、この「枕営業」という言葉じたい、女性が主体的に不当な利益を得ているかのように表現することで、男性による性的搾取という事案の本質を隠蔽し、責任や攻撃の矛先を加害男性から被害女性にすり替えるものだ。
#MeeToo運動の端緒となった、米ハリウッドのハーヴェイ・ワインスタイン氏によるセクハラ・性的暴行の告発問題でも、おぎやはぎ・小木博明が「枕営業」と口にしたり、松本人志も「(日本の番組にも)グレーな女、出てる」と、被害女性側の問題にすり替えていた。
ようするに、松本はこうやって、公の電波でミソジニー的発言を垂れ流すことで、性的搾取を女性の営利活動と倒錯させる価値観を世間に拡散していったのだ。そして、「下ねた」と称してセクハラ・性的搾取がカジュアルに行われる土壌が温存・再生産されてきたのである。
しかも、松本がタチが悪いのは、ミソジニー的価値観はそのままなのに、最近は空気を読んで、炎上だけを巧妙に避けるやり方をとっていることだ。
たとえば、典型が今回のマリエ問題へのコメントだろう。先週11日放送『ワイドナショー』の番組冒頭で、ゲストコメンテーターとして出演していたシソンヌ・長谷川忍が「ズバズバいかせていただきます」と意気込みを語ったのに対し、松本が「ちょっとマリエさんについて」とぶつけて、スタジオの笑いを取ったのだ。
自分が出川が告発されているのと同じようなふるまいをしているため、この話題を避けたらネットで突っ込まれる。かといって、自分の考えをそのまま口にしたら大炎上になる。だから、自分の見解を一切口にしないで、マリエを笑いのネタにしたのがミエミエだった。
ところが、ネットの松本信者たちは、いつものように「さすが、まっちゃん」「触れただけでもすごい」などと賞賛、スポーツ新聞も松本の発言を「ぶっ込んだ」「キラーパス」などと持ち上げた。
前述したように、出川はCM出演がゼロになっているが、それは出川が大御所タレントではないからで、本質を隠すものでしかない。そして、松本はセクハラ、ミソジニー体質を許されたまま、今も“テレビの王”として君臨している。こうした状況を許しているかぎり、芸能界のセクハラ構造はなくなることはないだろう。