今年の9月はいつもとは違う感じがした

9月になると毎年思うことがある。ボクが、くも膜下出血で倒れてから12年が経った。66歳になった今年は、なんか違うって感じた。

今はまだ若輩である66歳だけれども、歳を重ねる経験はしてきた。

中学生の時に親が事業に失敗した時は、本気で母親と妹を自分が養わなければならないと思い、年齢を偽って工事現場で夜間早朝のバイトをした。あっという間にバレて、真剣な少年の決意は浅はかな無力さだけを残して苦い思い出となったけど、自分の大切な転機はあった。

18歳では、中学時代から始めた水球で、インターハイ、国体と進み、本気でオリンピックを夢見ての大学受験。進路になんの迷いもなかった。

大学3年の時には、一番大切な時期に水球とは全く関係ない草野球で肩を痛めて代表選手の座を退いた。そのときは情けなくって自暴自棄にもなった。水泳で小学校から夢を追い続けていたボクの未来は真っ暗に見えた。

体育会の合宿所を出て行かねばならなくなっただけでなく、留年までしたことも親に告げられずにいた。どうしようとこそこそ正月家に帰ったら、すでに学校からの通知で親にはバレていたのだけれど。なんて小心者だったんだろう。

その後は麻雀とバイトに明け暮れた。

雀荘に半袖で入ったのに出てきた時はもう冬だったという逸話まで生まれたくらいだ。

そこで友人に大学のミニコミ誌に原稿を書かないかと勧められて、書くことの道が始まった。そして、あれよあれよという間に大学時代から新聞に連載を持たせてもらった。運が良かったのだ。人にも恵まれた。

22、3歳の大学卒業の時は、寝坊という人生最大の失敗(とその時は思った)で就活に失敗し、弱小編集プロダクションに入社。

編集プロダクションといっても、別の業種を営んでいた女社長が編集部門を作りたいからと、ボクとボクと同じ歳の新卒のK君がその編集部門に就いたのだ。社員はその3人。

新入社員は二人とも素人だったけれど、がむしゃらに働いた。20代はその会社でいろんなことをした。有名企業が作った雑誌の編集長もした。社員なのに給料の安さで驚かれたりしたが、まあ、やりたいことは全てやらせてくれたし、それには予算もついた。

でも、その推定60歳ぐらいの女社長が結婚して大阪に行くということになり、その会社は解体した。ボクはフリーになって、K君は大手出版社に再就職した。

フリーになったその年に初めて出した本がベストセラーとなる。そしてその年結婚をした。派手な世界ではあったがフリーランス。それから浮き沈みを繰り返したが、なんとなく形になったと感じたのは35歳ぐらいの時。働き盛りだ。

37歳ぐらいまでには一回目の人生の道が見える。もちろん全ての人がそうではないのはわかっているが、今までやってきたことが正しいのか、方向転換したほうがいいのか、まだその時点ならいくらでもやり直しもできる、そんな歳だ。

40歳だって50歳だって出発はできる。でもボクは色々なポイントの中でも37歳のポイントは、今の自分を作る上で「ゾクゾクッ」とする歳だった。そこから何かが変わった。

今までの失敗の連続のボクだったが、水球で培った強靭な体力は役立っていたし、自暴自棄の時代に「大丈夫か?」と言われ続けていた麻雀ですらTV麻雀大会や日本代表で出場するという暴挙をいただいた。やったことに無駄はないと言われるが本当にそうだ。

第二の失敗

一回目の就活の後も失敗がなかったわけではない。第二の失敗は53歳の時。

「どうも具合が悪いな」そう気がついていた夏。病院に行かなければ、とも話していた。

2011年9月、広島から羽田に戻る飛行機の中でくも膜下出血を発症する。あれから12年が経つ。当時53歳だった。

まだまだ若かったので、バリバリに働いていた。テレビやラジオのレギュラーも4本かな。雑誌の連載も取材も飲みに出掛けることも全て大事なライフワークで欠かせなかった。寝る時間もなかったくらい。

そして家族も大切だった。週に1、2回しか家でご飯は食べれなかったが、決めていたことは「大切な家族のイベントには参加する」だった。妻だって忙しいのはわかっている。年に1回の夏の家族旅行や、正月の広島帰省など、これぞというイベントをぱぱっと入れる。入れられた家族の予定が「絶対」だ。「仕事が……」なんて口が裂けても言えない。

年に数回のことができなかったら、それは言い訳でしかない。もし参加できていなかったら家族崩壊していたかもしれない。

一方、運動会や参観日なんていうのはほとんどいけなかった。行きたかったけれども。参加できたイベントだって、忙しい時はその場に家族を置いて行ったり来たりして乗り越えた。でも、幸せだったんだと思う。

忙しいけれど、それなりに頑張っていた。それが一瞬でバタバタっと崩れた。

ボクはフリーランスだから、倒れてしまうと数ヶ月後には収入は全くなくなる。でも、次の年もまだ入院していた。寝たきりで天井しか見つめられない、動けない身体。高額な医療費に加え、住宅ローンに前年度の高額な税金もある。

妻の蓄えていた預金もあっという間に底が見えたという。家族は就職したての長男と、まだ高校生の長女がいる。しかもその頃は、ボクは全く考えることも動くこともできなかった。

そんな時に、まだまだ若かった長男が支えてくれた。長女は、ちょうど受験時期で妻も全く構ってあげられず、学校の先生の協力のもと、予備校にも行かずに勉強して受験してくれたらしい。家族には本当に迷惑をかけた。

こんな人生で失敗があるものだろうか?

ここを乗り越えたのは、本来のんびりした性格の妻の功績が大きい。ボクは「好きです、結婚してください」とプロポーズを公表していたが、妻はみんなから「なんで神足君と結婚するの?結婚してくださいって言われたから?」と聞かれたらしい。自分の意思はないのか?と聞かれたぐらいふわっとしていた。そんなことはないと妻をよく知っているボクは思うのだけど。

入院中も長男曰く「パパの発病の頃は、何が何だかわかっていなかったからママは全く機能していなかった」とのこと。ただただ、「よくなるって、もっと」と変な自信だけあったという。

でも全く機能していなかったママと家族が変な自信のもと、専門家の意見を無視して自宅に返してくれた決断がまたボクの第二の人生の始まりだった。ふわっとしていた妻のおかげだ。

第二の転機、53歳

それからの12年は、家族にとっては大変な道のりだったと思う。知人や仕事関係の協力のもと、仕事も細々ながら始められた。今年の9月で発病から12年。珍道中の最中である。

ボクは66歳となり、昨年実名とともに高齢者の仲間入りをした。これまでも要介護5の身であったので、特例な介護保険適用者だった。65歳になって本当の意味で介護保険適用者となった。

こんな原稿を書いていてお恥ずかしいが、「ああ、そうだったのか」と介護保険で使えるものが増えた。オムツ類の支給だったり、美容理容券だったり。まだまだ若いと思いたかったが、もうそんな年なのだ。

ボクは病気になってから加速して歳をとった感じがあったが、みんなはどうだろう?

大きな企業に勤めていた友人たちは定年を迎えた人も少なくない。第二の就職先を探したり、同じ職場に残ると給料は半分以下だっていう話を聞く。同じ仕事をしているのになぁとぼやく。生産力が落ちているんだろうか?と自問自答の友人たち。

ボクも最近「体がなんか違う」と思う。気力もなんか違うって思ったりもする。

みんなが口を揃えて言っていた62歳の壁だろうか?60歳超えたぐらい「あれ?」と思い、そして62歳ぐらいで実感する。老いたことを。

そして65歳には立派な高齢者だって誰かが言っていた。

まだまだ65歳なんて若い。そう思っていたし、今もそう思う。

80歳過ぎた義父母を見ていても、まだまだだって感じていたけど最近思う。「あれ?年取った?」って。

いかん、いかん。まだまだもうちょっとやりたいことがあるんだけど。

これからどうなっていくんだろう?と思っていると、「やりたいことがあるうちはまだ大丈夫だよ」って30歳上の先輩が励ましてくれた。

だいたい、失敗だと自分で思っていた地点だって人生において大切なポイントだったのかもよ?

うん、確かに茨の道を選んだかもしれないが病気以外はそんな悪くないかもしれない

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