長引くコロナ禍、そして未婚の「ソロ」人口の増加…現代は誰しも孤独を抱える可能性がある時代だ。私たちは孤独とどう向き合えばいいのか。
「人と人との間に孤独は必ず生まれる」三木清氏の言葉
みんなの介護 「一人の方がいい」という人も最近でこそ増えてきましたが、やはり「孤独は悪」という価値観も根強いように思います。
荒川 ことさら「孤独は悪」というレッテル貼りする論調には反対なんです。孤独に苦しむ人もいるかもしれないが、孤独に救われる人だっているからです。
自分と向き合うことは孤独でなければできません。それを無視して「孤独は悪だ」という偏った議論をやっているからダメだと思うわけです。
人間には外向的な人と内向的な人がいます。外向的な人は、みんなと一緒に過ごすことを楽しいと感じます。だから誰かと一緒にご飯に行きたいし、すぐに誰かに電話をする。どこかに行って誰かと会おうとする。それはそれでいい。しかし、そうじゃない人も半分いるわけです。
内向的な人は、誰かとワイワイ過ごすより、家で一人で本を読んでいた方がよっぽど充実感を感じるという人です。その人たちの行動を無理に変えることはできないでしょう。人間には向き不向きがあるのと同様、孤独に対する向き合い方も様々です。
みんなの介護 そうですよね。では、本来、孤独とは何なのでしょうか。
荒川 哲学者だった三木清が『人生論ノート』という本に「人と人との間に孤独は必ず生まれる」と書いています。まさにその通りで、言い方を変えると、生きていれば必ず孤独と出会う。孤独は日常なのです。
だからこそ、孤独は恐れることでもないし、悪でも善でもない。排除するのではなく、上手に付き合っていくべきものだと思います。
「孤独は悪だ」という論者は、一人になっている人を見かけると、「悪に包まれているから救わなきゃいけない。こっちへおいで」と考えるわけです。
でもね、その人が「俺は一人になりたいんだよ」と思っていたら、えらい苦痛なわけです。
「なんでお前は俺を連れていくんだよ」という話になってしまうじゃないですか。
どっちかが善でどっちかが悪と考える二元思考が、結局のところ敵を生み、差別を生み、全体主義を生んだのは歴史を見れば明らかです。何かを「悪」とする人は決して人を幸せにはしない。
コロナ禍が私たちの孤独の捉え方を変えた
みんなの介護 ただ、コロナ禍で人と会うことが制限されたことで、徐々に価値観も変わってきていますよね。
荒川 コロナ禍で多くの人が孤独な時間の大切さを再認識しました。それはとてもいいことだと思います。
テレワークになったことで「ずっと家族といられて嬉しいな」と最初は思ったかもしれません。でも時間が経つうちに、ストレスになっていった人もいます。
それは決して家族が邪魔とか嫌いになったということではなく、誰にも一人になれる時間が必要だからです。今までの通勤の往復2時間がどれだけ貴重だったかを、思い知った人もいるでしょう。
通勤時間は、周りに人がたくさんいます。しかし、誰も自分のことは気にしていない。
逆に一人が大好きだった人も、一人で家に閉じこもってばかりでいることはあまり快適ではないと気づいたわけです。
コロナ前は「会社に行きたくないな、毎日嫌だなあぁ」と思いながら通勤電車に揺られていた。しかし、あれはあれで身体性という面からは必要だったんです。不本意であったとしても、わざわざ出かけていって人と話をする行動があってこそ、一人の時間の充実を感じられる。
そういう意味で、孤独は日常であり、望むと望まないとにかかわらず、誰にも必要な時間でもあり、体験でもあるわけです。そういう視点で孤独をとらえてほしいと思います。

世阿弥の「離見の見」で自分を客観視せよ
みんなの介護 最後に、自分と上手に向き合うヒントを教えていただけますか。
荒川 自分と向き合うということは、自分を客観的に見るということです。自分の殻にこもるということではありません。
それには、自分を俯瞰して見ることが必要です。室町時代の世阿弥の言葉に「離見の見」(りけんのけん)というのがあります。
例えば、舞を踊るときに、ステージにいる自分から客を見るまなざしだけを持っても仕方がない。
自分の背中からの視点で踊っている自分を見る。もしくは、客席の最後尾に自分の意識を置いて、そこから自分を見る。自分がどう見られているかを把握するということです。これは舞だけの話ではなく、まさに自己の客観視、メタ認知のことを言っているわけです。
みんなの介護 逆に主観的に自分を見てしまうというのはどのような考え方ですか?
荒川 例えば人と会っていなくても、テレビのニュースやネットの記事など外部の情報に触れたとき、憎しみの感情が湧いてきたとします。
そして、その思いを誰かにぶつけたくてネットに悪口を書くとします。そこで書いていることが誹謗中傷だったりするわけです。でも、本人は自分の感情を吐き出したいと思ってやっているから「ああよかった。せいせいした」と思う。そこには主観しかない。
書き込んだことで誰かが悲しむとか、傷つくなんてことは考えないわけです。感情的になればなるほど、主観でしか考えられなくなる。
自分の子どもの失敗だったら、後輩の失敗だったら…と考える
みんなの介護 感情的になってしまう自分から目を背けたくなる人はどうしたら良いでしょうか。
荒川 客観的に見ると見たくない自分が見えてくることもあります。例えば「あのとき、こうすべきだった」という気持ちでいっぱいになることもあるでしょう。
そんなときは「自分の子どもの失敗を見る親の目」や「後輩の失敗を見る先輩のような目」で見てみることです。そうすると、自分に対する見方や感じ方が変わります。
自分の失敗だけを意識化すると、後悔でいっぱいになるとします。しかし、自分の後輩が失敗してウジウジしている姿を見たら「いつまでも落ち込んでいたら本人のためにならないよな」とか「どうしたら元気づけられるのかな」という思いになるじゃないですか。
その思いを自分に対して伝える。これが自分と向き合うということです。この力は訓練することによって育まれていくものです。
みんなの介護 それをできる人が増えたらもう少し平和な社会になりそうな予感はしますね。
荒川 自分を客観的に見ることは、自分にとっての救いにはなります。しかし、本人のいう客観とは、真の客観ではなくその人の主観的客観にしか過ぎない。80億人の人口がいたら80億通りの主観がある。だからみんな違って当然だし、本当はわかりあえていないかもしれない。でもだからこそ、わかろうとする気持ちが芽生える。思いやりとはそういうものだと思います。
撮影:駒形美世瑠