分身ロボットOriHime(オリヒメ)をつくる吉藤オリィ氏は、小学5年生から3年間引きこもりだった経験を持つ。しかし、人と関わることが苦手で虚ろな目で自室の天井を見つめていた不登校の少年は、やがて世界が注目する存在となる。
ものづくりは私が孤独を解消する手段だった
みんなの介護 最初に、吉藤さんの不登校時代の経験とロボットとの出会いについて教えてください。
吉藤 小学生の頃、私は人と話すことが苦手でした。だから、友だちが鬼ごっこをして遊んでいても、その輪の中に入っていけなかったのです。
代わりに私はものをつくっていました。そして自分がつくったもので、友人たちが遊んでくれたのです。
当時はネットにもつながっていない時代で、学校にエンタメ要素のあるものを持ち込んではいけないという厳しいルールもありました。だからこそみんなに喜ばれました。
そういった、ものをつくる側の人間として必要とされることで、友人たちとのつながりを持てていましたね。そんなコミュニケーションをしていた幼少期だったのです。
みんなの介護 吉藤さんは、創作折り紙が大の得意なんですよね。名刺代わりに即興で吉藤ローズというバラをつくって渡されるとか…。折り紙の面白さにもその頃目覚めていたのですか?
吉藤 ただ、折り紙はあまりウケなかったのです。それを使ってみんなと遊ぶことはほぼありませんでした。折り紙で紙飛行機をつくって、どこまで飛ばせるかを競う大会を企画したことはありましたが。
どちらかと言うとダンボールで車をつくったり、転がすおもちゃをつくったりしていましたね。
人の輪に入っていくのが苦手なタイプながら、ものをつくることで私の周りには友人が寄ってきてくれていました。
ところが、4・5年生ぐらいになったとき、他のクラスメイトが大人びてきて状況が変わりました。もう、おもちゃでは遊ばない年齢です。人が離れ、クラスからどんどん居場所が奪われました。
また、同じ時期に祖父が亡くなるなど、つらいことが重なりました。私自身も病気になって一週間ぐらい入院と自宅療養をしたのが不登校になったきっかけです。
そして、人と話すことの苦手意識がどんどん強くなっていきました。それがさらに悪化すると、「何とかしなきゃ」という気持ちすら薄れていく。人と会うと怖いし、うまく話せなくてショックを受ける。人と話す能力が低下していく。まさに孤独の悪循環でしたね。
母が申し込んだロボット大会での優勝が転機に
みんなの介護 その状況からどのように脱出していったのですか?
吉藤 大きな転機は、たまたま母親が申し込んだロボット大会で優勝したことです。ものづくりのときだけは目を輝かせている私を見て、「折り紙ができるならロボットもつくれるはず」と機会をつくってくれたのでした。
そして地区大会で優勝した翌年、全国大会で準優勝。会場で師匠と呼べる先生と出会うことができました。私の住んでいた奈良で“生駒のエジソン”と呼ばれていた工業高校の久保田憲司先生です。それから、その先生のところで学びたい一心で、学校や塾に通い猛勉強を始めました。
みんなの介護 大きな心境な変化があったのですね。久しぶりに学校に戻ることに苦痛は感じませんでしたか?
吉藤 確かに、小学5年から不登校で3年半の遅れがありましたから、学校に行くことはとてもつらかったです。
その後、念願叶って久保田先生のいる工業高校に入ることができました。その高校では学校間交流をしていたのですが、私は折り紙の先生役として特別支援学校に行き来するようになったのです。ここで折り紙を折っていたいたことが活きました。
その交流の中で、もっと乗りやすい車いすをつくれないかという話をいただき、久保田先生と一緒に車いすをつくりました。
高校時代、活動の過程でいろいろな人と出会うことができました。とても印象的だったのが、研究者の先生たちの目が輝いていたこと。こんなに楽しそうにしている大人を初めて見たのです。
みんなの介護 久保田先生の他にも、素晴らしい先生方との出会いがあったのですね。影響を受けた方はいますか?
吉藤 もう亡くなられてしまった、ノーベル賞を取られた小柴昌俊先生ですね。私は小柴先生に研究を見ていただくことができました。
また、 高校生・高専生科学技術チャレンジ(JSEC)の審査員だった理工学術院名誉教授の橋本周司先生からは、「君は研究者になりなさい」と仰っていただきました。そこから研究者への道を強く意識するようになったのです。
さらに翌年にアメリカで開催されたインテル国際学生科学技術フェア(ISEF)という世界大会で衝撃を受けたのです。そこに集まっていた高校生たちは、「俺はこの研究のために命を張っている。これをするために生まれてきたんだ」と語っていて。
私はひきこもりだった頃、本当に生きることがつらくなって、半分鬱状態になっていました。何もやる気が起きないし、何をすればいいかもわからない。「将来どうするんだ?」と言われることもつらかった。
そんな時期を過ごしていたので「これで生きる!」と語れることっていいなと思ったのです。

「選択肢のない孤独」をなくしたい
みんなの介護 なるほど。生きる目的を見つけたのですね。
吉藤 そうですね。
そのような状況にあって、呼吸器をつけて生きる選択をする人は、やっぱり目的を見つけた人だったりするんですよね。
みんなの介護 あらためて吉藤さんの活動のモチベーションは何ですか?
吉藤 よく勘違いされるのですが、私のモチベーションは、他人の役に立ちたいとか他人を助けたい、というものとは少し違っています。あくまで自分自身興味をもっている、“どうすれば孤独にならないですむか”を研究したいんです。
孤独というものは人によって解釈が違います。私の考える孤独は「選択肢がなかった孤独」。自ら選びとった孤独であれば、まだいいんです。でも、病気や環境などで孤独にならざるを得なかった状態というのは本当につらいですよね。どこにも自分の居場所がないと感じてしまう。
孤独が鬱や認知症の原因になってしまうというのも良く理解できます。私自身、ひきこもりになっていた頃、夜中に勝手に体が動いて池の前に立っていたこともあります。
この「選択肢のない孤独」は、高齢になったり、病気や障がいをかかえたり、事故にあったりして誰もが直面する可能性がある。そして、そこから抜け出すのが難しくなっている方がたくさんいます。
そのときに、どうすれば新しい友人と出会えて、ここは自分がいていい場所だと思えるか。そのような居場所をどう獲得していくか。その方法を研究してつくりたいという思いが私の原点です。
みんなの介護 まず、コロナ禍で外出に制限がかけられたことで私たちは孤独を感じています。これが、みんなが外に出られるようになっても自分は出られないということで孤独を感じる人が出てくるのではないでしょうか。
吉藤 そうですね。コロナが明けたらコンサートに行こうとか、みんなで集まって飲み会やろうという話になっても、自分はそこに行けないと思う人は必ず出てくるんですよね。
孤独って、実は自分の中だけで完結するものではないと思うんです。例えばほかの人たちは足が動いて走れたり山に登れたりする。でも自分は足が悪い。そのように、集団の中で、自分はほかの人とは違うと感じたときに引き出されるものだと思います。