昨今、嚥下障害の患者数が増えている。特に、介護施設では入居者の過半数に嚥下になんらかの障害が見られるという調査結果もあるほどだ。
摂食嚥下リハビリテーションを専門分野とする朝日大学の谷口裕重先生に、介護食や嚥下調整食についての話を伺った。
本記事は、「日本摂食嚥下リハビリテーション学会嚥下調整食分類2021」に準拠しております
目次
- 嚥下障害と誤嚥について
- おいしい食体験の研究
- 未来の食卓
嚥下障害と誤嚥について

嚥下とは、食べ物を認識してから胃へと食べ物を送り込む一連の動作の総称であり、嚥下障害はその動作のどこかが「障害」されている状態である。
一般的に、誤嚥と嚥下障害は同列に語られがちだが、誤嚥は嚥下障害のひとつだ。
誤嚥は、咽頭期と呼ばれる、食塊を食道へと運ぶ際に起こる障害で、肺に雑菌が侵入して炎症が生じる「誤嚥性肺炎」を引き起こす原因となる。

イラスト:看護roo!
谷口先生は、誤嚥について次のように解説する。
谷口先生
「簡単に言えば、食塊が食道ではなく、気管に入ってしまうことです」
レントゲンで嚥下の過程を視認できる「嚥下造影検査」の映像をご覧ください。まずは正常に嚥下を行っている方の動作です。
映像提供:朝日大学
谷口先生
「『ごく』という反射が起きて、食道に食塊が入っていくのが分かると思います。
続いて、誤嚥が起きてしまっている方です。
スローで再生します。食塊をうまく送りこめず、一部が気管に入ってしまっていることが分かります」
映像提供:朝日大学
嚥下障害の増加と予防日本の死亡原因は現在、悪性腫瘍(がんなど)が最も多く、次いで心疾患、脳血管疾患という順番になっている。

※市中肺炎患者と院内肺炎患者の症例数の合計
厚生労働省「高齢化に伴い増加する疾患への対応について」をもとにグラフを作成
近年、肺炎による死因が上昇傾向にあり、2011年には三番目に多い死因にもなった。
さらに、75歳以上の高齢者の肺炎のうち7割以上が誤嚥性肺炎とも言われており、誤嚥の危険性が注視されている。
誤嚥性肺炎の原因となる嚥下障害(特に誤嚥)は、脳卒中やパーキンソン病に由来するものだとこれまで考えられていたため、加齢に伴う「口や喉」の機能低下が引き起こしている可能性が見過ごされがちだった。
さらに新型コロナウイルスの蔓延による危険性を谷口先生は指摘する。
谷口先生
「コロナ禍で、高齢者の方々の外出が『極端』に減りました。すると、歩行能力が知らず知らずのうちに低下し、歩くことが苦痛となり、家に『籠る』方が増えてしまいました。
外出の機会が少なくなることで、他者とのコミュニケーションも減少し、口周りや喉の機能が低下してしまいます。続いて、食事も十分に行うことができなくなり、身体機能が低下していくという悪循環に陥ってしまうケースが非常に増えています。
『鶏が先か卵が先か』といった問題はありますが、身体機能の低下と口周りや喉の機能低下の関係性には多くの問題がはらんでいることに間違いありません」
嚥下障害とも相互に関係がある認知症の患者数は、2025年に700万人になることが見込まれている。その約8割の患者に、なんらかの嚥下障害が生じる可能性を谷口先生は危惧する。
因果性のジレンマこそあるが、谷口先生はどのようなアプローチを考えているのだろうか。
谷口先生
「従来は、リハビリテーションを通じた嚥下機能の改善や回復を目指していました。
それでは、どうするべきか。例えば、誤嚥に対しては、安全を確保したうえで「食べてもらえる」環境作りに力を入れています。いまできることや能力を大事にしようという考え方です。
その一環として、嚥下調整食や介護食品の研究・開発を行っています。誤嚥、ひいては肺炎を起こさない、悪化させないという『予防』と、その知識を医療者はもちろんのこと、一般の方にも知ってもらう『啓発』に取り組んでいます」

写真提供:朝日大学
嚥下調整食とは?嚥下機能が低下した場合、食形態の調整や飲料にとろみをつけた飲食をすることが一般的だ。
食形態の分類は多数あり、機能に応じた食品を適切に選択できることを目的とし、標準化が進められてきた。
例えば、市販食品として企業が提案している 「ユニバーサルデザインフード」は、利用者の方にわかりやすい表示をするための自主規格として策定された。
農林水産省が推進する「スマイルケア食」 は、2014年に農林水産省が作成。食機能(噛むこと、飲み込むこと)や栄養に関して問題がある方々に、幅広く介護食品を利用されることを目的に整備された。
一方、病院間などの連携強化を目的とした分類が、日本摂食嚥下リハビリテーション学会により2013年に作成された。
参考:食形態の分類
嚥下に不安がある方が安心して食体験を行える環境構築が進められている。
予防と啓発の重要性谷口先生は、ポピュレーションアプローチ(※)の重要性も説く。
※個人の生活環境や健康状態にかかわらず、対象となる全員に向けてアプローチを行い、少しずつ健康のリスクを軽減させていく方法
保健所や介護施設などの現場に頻繁に訪れ、早期のトレーニングやリハビリテーションを推奨している。
一方、現場を訪れるたびに、「口」についての意識が「それほど」高くないことを谷口先生は不安視する。誤嚥性肺炎は、一度かかると再発する可能性が高い。まずは肺炎を起こさないように、「口」や「喉」の機能を維持する重要性を説き、予防の概念の普及にも谷口先生は力を入れている。
谷口先生
「私の医学・医療のベースは歯科です。咀嚼などの「食べる」行為を通じて口や喉も、筋肉同様に鍛えることができるので、嚥下障害や認知症を『おいしく』予防することにも力を入れています」
嚥下調整食や介護食の普及につれて食卓に登場する機会も増えてきているとはいえ、まだまだおいしい「食体験」をすることは難しい。
谷口先生
「嚥下調整食や介護食を研究するにあたり、『おいしさ』も重要視しています。
私たちはよく“賦活化”(活力を与えること)という言葉を使用しますが、食べる行為においては、『これまでの記憶』、特に『以前、楽しんでいた味』ということもキーワードだとわかってきました。記憶が食べる力を後押しするのです」おいしい食体験の研究

数多くの企業が嚥下調整食や介護食の研究に力を入れ始めているなか、谷口先生の研究チームは、介護食の「お弁当」の開発も行っていた。背景には、高齢者の「食べられない」問題があるという。
谷口先生
「昨今、『低栄養』が問題になっています。70歳ぐらいまでは栄養を制限することが多いのですが、70歳を超えたあたりから、身体の機能低下によってうまく代謝ができなくなり、どんどんやせてきてしまいます。
解決策のひとつには、『効率良く栄養を取る』ことがあげられます。そこで、名古屋で創業300余年を迎える「八百彦」という老舗のお弁当屋さんとのコラボレーションを実施しました」

写真提供:株式会社八百彦本店
一方で、介護食と「おいしい」というイメージは、世間ではまだまだ結びつかないのではないだろうか。安全性とおいしさの「両立」のためにどのような取り組みをしているのだろうか。
谷口先生
「『おいしさ』を追求することは、非常に難しいテーマです。安全性よりも優先すべきことはありません。ただ、科学的には解明できていませんが、『(ご自身が)おいしいと思う物は、飲み込みが良くなる』ケースが多いという仮説を立てています。
好き/嫌いは個々の感覚が関与しますが、食べる行為自体は脳の指令によるものです。『おいしそう!』『この匂いは好きだな』という感情は、飲み込む力につながっているのだと私は考えています」
「とろみコーヒー」の体験談嚥下調整食や介護食にとって最も重要なことは安全性だ。
しかしながら、朝日大学とコメダ珈琲店、石光商事が共同開発をした世界初のとろみつきインスタントコーヒー「とろみコーヒー」は、「おいしい」といった評判を呼び話題になった。 嚥下に不安がある方でも楽しめるこのコーヒーの開発には、どのような「工夫」があったのだろうか。
谷口先生
「嚥下調整食や介護食は、医療者が基本的に監修しますので、必然的に「医療者」的な視点が開発の大部分を占めます。
一方で、『とろみコーヒー』の開発時にコメダ珈琲店さんからご提案いただいたことは、飲んでくださる方に『おいしいと思ってもらいたい』ということでした。 私たち医療側は安全性を、コメダ珈琲店さんからは味や見た目、石光商事さんからは風味や香りの技術を提供できるというベースのもとに共同開発が進みました。
産学連携があったからこそ、皆様においしく楽しんでいただける食体験をご提供できたのだと思います」
おいしくする秘訣を“こっそり”伺った。
谷口先生
「脳の活性が重要です。とろみや味を総合的においしいと脳に判断してもらうことが必要になります。
『とろみコーヒー』の開発では、先ほども申し上げた“記憶”がキーワードだったと感じています。つまり、過去に飲んだことがある『あのおいしいコメダ珈琲店のコーヒー』になっているかどうかということです」
「とろみコーヒー」をめぐる、ある患者さんのエピソードがある。
路上で倒れているところを発見されたその患者さんは、大学病院へ緊急搬送され、急性硬膜下血腫と診断される。 その後、リハビリのために朝日大学病院へ転院。入院した病室の窓からは、コメダ珈琲店が見えた……。
谷口先生
「ご家族の方からも許可をいただいていますので、動画でご覧ください。
この方は、コメダ珈琲店に1日に3回も行く“コメダ珈琲店通”。ほとんどの食べ物を誤嚥されてしまうのに、『とろみコーヒー』を飲んでくださったところです」
映像提供:朝日大学
谷口先生
「分かってくださるんです。匂いや味で。 最初のシーンをご覧いただければお分かりになるかと思いますが、かなりやせてしまっていますよね。誤嚥をするので、食べることができませんでした。 その方が、『とろみコーヒー』を飲んでくださったことをきっかけに、ついには、退院前に『三食』食べられるようになったんです』
コメダ珈琲店に対する記憶を契機に変化が見られた。ご本人からは、「好きなコーヒーを飲めたことで食欲がわいてきた」という言葉があったそうだ。

写真提供:株式会社コメダ
未来の食卓

おいしそうな嚥下調整食や介護食がテーブルに並ぶ。未来の“食卓”には、誰もがおいしい食事を味わう光景が待っているのだろうか。
谷口先生
「DeliSofter(デリソフター)」という製品も発売されているますね。外見は炊飯器のような調理器具で、“みんな”がその場で食べている食事を入れるだけで、見た目や味を極力変えることなく、食べやすい状態にしてくれる製品です。蒸気をかけて食材を柔らかくしてくれます。
『同じもの』を食べるということは、今後の重要なキーワードです」
一方で、課題も残る。介護施設や各家庭で毎食を十分な食体験とするには、人手不足やコストの問題もある。谷口先生に課題解決を聞いた。
谷口先生
「残念ながら、毎食を『十分な食体験』とすることは、まだまだハードルが高いと感じています。でも、おやつの時間に“嗜好品”を楽しんでもらうということは『とろみコーヒー』で実現できました。
たとえ嚥下に不安がある方でも、一日のどこかのタイミングで「おいしい」時間をもっていただくことは可能になったと思います」
とろみコーヒーの開発では、とろみ調整剤を入れることにより「風味が変化する」、「コーヒー本来の香りを感じにくくなる」ということに頭を悩まされたそうだ。とろみが“邪魔”をしてしまうと谷口先生は表現する。
谷口先生
「物性が変わることで、食感の変化にもつながり、脳内で処理される「味」が変わってしまいます。
とろみをつくる増粘剤は、かなりの種類が開発されています。それでも、「合う/合わない」があります。ここは『企業秘密』ですが、かなりの工夫が施されているからこそ、おいしいと感じていただけます。
そういった商品をどんどん開発して、ひとりでも多くの方に食事を楽しんで頂ければと思っています」
「諦めない社会」のために今後、嚥下調整食や介護食はどのような「進化」を見せてくれるのだろうか。
谷口先生
「目指しているのは、『一般の方が食べてもおいしいと思える食品』です。
例えば、岐阜県のおそば屋さんとコラボレーションして「そば懐石」を作ってもらったこともあります。飲み込みに障害がある方でも、気道に入りにくい工夫をしました。これが『めちゃくちゃ』おいしいんです。

写真提供:株式会社フードケア
嚥下障害があるから諦めるのではなく、誰もがおいしいものを食べられる社会が理想です。
今回の『とろみコーヒー』も、一般の方にも飲んでほしいというのが、われわれの狙いであり、一般の方にも満足いただけるクオリティです。ホイップクリームやアイスクリームを乗せて、ウインナーコーヒーとして楽しんでいる方もいらっしゃいました」
嚥下調整食や介護食の開発では、個々の体験やフィードバックが細かすぎることもあり、それらを集約することは非常に困難な作業なのではないだろうか。
谷口先生
「いまは“最大公約数”を大きくしていく段階だと考えています。
とろみは、『薄い・中間・濃い』の3段階に分けられます。『とろみコーヒー』はあえて中間を選びました。
おいしさを取ろうと思えば、「薄い」選択肢を取ることが一般的です。液体に近いので調整しやすいですし、いつも飲んでいるコーヒーに近づけられます。 では、なぜ中間を選んだかというと、安全性とバランスです。多くの嚥下障害の方はもちろんのこと、一般の方にも「美味しいとろみ」を飲んでもらいたいという意味で、あえて中間のとろみを選択しました」

「日本摂食嚥下リハビリテーション学会嚥下調整食分類2021」を参考に作成
介護現場の実情介護施設をはじめとした介護現場をよく知る谷口先生に、介護の未来についても最後に伺った。
谷口先生
「これからの時代、“総合的”に考えていくことが重要だと私は考えています。今までは、口腔は口腔、栄養は栄養、リハビリはリハビリといったように“部分部分”の対応がなされていました。
しかし、介護保険・介護報酬の改定が進み、口腔と栄養が『一緒』になったことは重要なターニングポイントになるのではないでしょうか。専門を異にするメンバーで構成されたチームで、一人ひとりの患者さんにこれまで以上に総合的に向き合うようになっていくと思います」
そのうえで、谷口先生はどのような目標を設定しているのだろうか。
谷口先生
「われわれ医療者はどうしても治療や安全を優先し『すぎる』きらいがあります。そこに“患者”さんがいるのではなく、それぞれの方に理想の生活があることを決して忘れてはいけないと考えています。
極端なことを言いますが、誤嚥しながらも食べている方は、少なくありません。それでも、肺炎にならない方も多いんです。我々が選択肢を増やすことで、それぞれの方の意思を尊重し、個々の幸せを追っていただける環境を作りたいですね」
協力(謝辞にかえて)
株式会社コメダ マーケティング本部 本部長 伊藤弥生様
石光商事株式会社 松本恭一様
株式会社クリニコ
株式会社フードケア
参考文献
野原 幹司著・編集「シンプルなロジックですぐできる 薬からの摂食嚥下臨床実践メソッド」(じほう)
臨床栄養 140巻1号(医歯薬出版)
朝日大学歯学部
摂食嚥下リハビリテーション学分野 准教授
岐阜県多“食”種連携研究会 代表世話人
谷口裕重(たにぐち・ひろしげ)氏
歯科医師。2004年に新潟大学医歯学総合研究科博士課程修了後、新潟大学医歯学総合病院 摂食・嚥下機能回 復部 講師、Johns Hopkins University、藤田保健衛生大学医学部(現藤田医科大学)歯科・口腔外科 講師、朝日大学歯学部 障害者歯科学分野 准教授を経て、2020年4月から朝日大学歯学部 摂食嚥下リハビリテー ション学分野 准教授に就任。
「摂食嚥下リハビリテーション」を専門としており、多くの企業と介護食の開発などの共同研究を行っている。2021年には岐阜県を「食」で繋ぐ岐阜県多“食”種連携研究会を多職種共同 で設立し、代表世話人を務めている。
本記事の内容は、2023年2月取材時点の情報をもとにしています
本記事の動画のダウンロードや無断転載を固くお断り申し上げます