渋谷と原宿の間、神南一丁目。ファイヤー通りから1本入った旧「東京都水道局派出所」跡にひっそりと現れる緑のオアシス「JINNAN HOUSE」は、茶食堂「SKAUU 茶空」、ギャラリー&イベントスペース「HAUS STUDIO」、フードトラック「RiCE TRUCK」、そして企画制作会社「KIRINZI inc.」と出版社「RiCE PRESS INC.」のオフィスが入る、飲食、カルチャー、ビジネスが並立するミニマルな複合型施設だ。
空間に漂わせる「匂い」
写真をスマートフォンで簡単に見ることのできる時代に、物質的に生身の人間が生身の写真と向き合うにあたって、どういった空間がいいのか、物質的であるからこそ人間がどういう状態で結びつくことが望ましいのかを考えています。会場内は吉祥丸の写真と映像を中心に、実験的かつジャンルレスな音楽を生み出すアーティストOtömika(オトミカ)による音とLOYALTY FLOWERS(ロイヤルティ・フラワーズ)主宰・フラワーアーティストのコウイチハシグチによる花木とのリンクによって構成されていた。物質的な写真そのものだけで完結しない、空間であるからこそ成立する展示の面白さを吉祥丸は楽しんで作り上げていた。2014年「Unusual Usual」、16年「Inside Out」、18年「about:blank」など、哲学的かつ直感的なコンセプト設定でこれまでも写真展を開催してきたが、内容は異なるものの、来場者に何かを考えさせるきっかけ、受け皿を提供することは共通していた。そんな吉祥丸が今回の写真展で来場者に提供した受け皿は日本語で「光合成」を意味する「photosynthesis」だった。
展示のテーマに限らず、追いかけたいテーマや思いついたアイデアを日頃からメモにためています。どこで耳にしたのかどこで目にしたのか覚えていないのですが、メモの中にあった「photosynthesis(光合成)」という言葉がずっと引っかかっていました。今気候変動によるオーストラリアの森林火災が世界中で騒がれているなかで、もっと俯瞰して社会とか環境を見つめ直した方がいいんじゃないかと思うようになりました。自然に対して私たちの視点は「人間目線すぎる」のかもしれない。簡単な話でいうと、「森を削って建物を建てましょう」など社会システムそのものに対して偏った人間目線を感じると吉祥丸は話す。人間の考える地球環境だからこそ、それは仕方のないことなのかもしれないが、ほとんどの人間が動物を食べて暮らしている文化自体にもっと違和感を持ってみる、動物の目線で地球環境を考えてみる、そんなことは私たちにもできることなのかもしれない。

「死」への思考が導く「人間としての性」
そもそも吉祥丸が自身の作品と社会や環境との結びつきを意識するようになったルーツをたどると、それは彼の少年時代にある。いたって普通のサッカー少年でありながらも、小学校の帰り道には時間の概念について、死の概念について1人で考えているような、今思うと少し変わった少年だったという。さらに、その思考がこの時間軸における10年後も自分のなかに存在することを当時から自覚していた本人は、死にゆく存在である自分に何ができるのか、そんなことに思考を巡らせることによって、人間として生きていく役割を社会や環境に携わりながら果たすというシンプルな発想に至ったそうだ。
ただ生きている状態も死の対義語であると言えますが、いわゆるアートというものも、ある種死の対義語として捉えられるかもしれません。存在しなくてもこの世界は回っていくだろうし、必要のないものかもしれません。ただ死にゆくものが何かを生み出す行為、それは自分の子どもを産むということかもしれないし、アートという選択肢をとることも、同じように人間としての性である気がします。少年時代から続く彼の思考が、自然と自身の作品を社会や環境へとひもづけた。今や哲学者やさまざまなジャンルのアーティストとの交流も多い吉祥丸にとって彼らとの会話は、少年時代から思考していたことの再認識に近いという。
自分という存在を宇宙規模で俯瞰して捉える。大げさかもしれないが、この感覚を研ぎ澄ませることは、地続きにどこまでも自分という存在を拡張させることに繋がるかもしれない。そして、もしもモノを食べる行為や自分が生きている環境そのものまでに自分という存在を拡張できたとしたら、環境問題は決して人ごとではなくなるだろう。


写真に映し出す「余白」の意味
記憶に新しいオーストラリア森林火災の報道。私たちは見るも無残な姿と化したコアラを目の当たりにした。これまでにさほど環境問題や気候変動に対して注意を向けていなかった人にとっても、ある種「分かりやすく」映し出されたかわいそうなコアラの姿は、動物的共感を生み、身近な存在として気候変動を危惧しただろう。
行為として比べてみたとき、本展のベクトルは報道のそれと大きく違った。写真というメディアは集合体として共通し合える要素をたくさん持つ。だからこそ写真は解釈の余地を残すことができる。写真の面白さをそう話す彼が、本展を通して来場者に提供したのはあくまで「photosynthesis」と言う受け皿だけだった。ただ来場者は皆、作品と対峙したときに環境と人間にひもづく「何か」を感じたに違いない。
吉祥丸の写真に映し出される「余白」も同様に、どこにも定義づけのできない存在だ。故に、バイアスの働きにくさを伴う写真は受け手に三者三様の解釈を与える。


写真という言語をある程度流暢に話すことができて、何かを表現したり情報を伝えやすい状況にいる以上、何かを伝えるということが一つの役割でもあるが、個人レベルでできる範囲とはたかが知れているし、当然国を動かすという規模感は難しい。ただし、国もあくまで個人の集団でしかないように、小さな単位で少しずつ意識を変えていくことは誰にでもできる。ただグラウンドデザインだけを考えていても、それは中長期的な構想や抽象的な思想でしかない。その思想に基づいた個人にできる範囲のことを見つけていくことが私たちにとってまず必要なのではないか。そんなことを彼は話していた。吉祥丸は写真業だけにとどまらず、今後は本展示会場「HAUS STUDIO」のキュレーションをも行う。また自身を含めたさまざまなジャンルの人間によって運営されるスタジオやリビングルームを備えたギャラリーをまもなくオープンさせる予定だ。「やらなくてもいいことをたくさんしていきたい、生きていて純粋に楽しいなと思える行為をたくさんしていきたい」、と彼は言う。お金ではなく、人間と時間を共に過ごすこと自体に価値を見出す吉祥丸の周りには、いつも自然とたくさんの人間が引き寄せられる。
(*1)immaとは 頭はCG、胴体はリアルの人間で構成されたバーチャルモデル。日本のファッション・カルチャーのアイコニックな存在としてSNS上で注目を集める。
嶌村吉祥丸(しまむら きっしょうまる)
東京生まれ。主な個展に”Unusual Usual”(Portland, 2014)、”Inside Out”(Warsaw, 2016)、”about:blank”(Tokyo, 2018)など。2020年1月の終わりから2月の頭にかけて「HAUS STUDIO」にて写真展「photosynthesis」を開催。
