【田園日記~農と人の物語~ Vol.8】五十年続くふれあい市を 昔なじみと守り立てる
冷涼な気候を生かした栽培
福島県会津若松市の南西に位置する昭和村は、全国でも有数のかすみそうの産地です。
JA会津よつば昭和かすみ草部会がブランドである「昭和かすみ草」の生産を始めたのは、昭和六十年。
以前は葉タバコを栽培していましたが、それに代わる作物として「そよ風が育てる」ともいわれる冷涼な環境を好むかすみそうに注目しました。

昭和村では、標高二〇〇~七〇〇メートルの高低差を活用し、季節に合わせて圃場を移動。出荷時期(六~十一月)を長くしながら収穫をしています。

村には豪雪地帯の気候を生かした予冷施設「雪室」もあり、夏でも鮮度を維持する工夫がされています。
稼げるようになるまで十年
昭和かすみ草部会の部会長を務める立川幸一さん(64)がこの地でかすみそう栽培を始めたのは、今から三十年ほど前のこと。それまで農業の経験はなく、長距離トラックのドライバーをしていました。
「ドライバーは稼げる仕事でしたが、家族とはつねに離れ離れでしたし、危険も伴います。そんななか、妻(洋子さん・66)の実家がある昭和村に通ううち、ここで農業をやってみようと思うようになったんです」
昭和村では高齢化が進み、新規就農をする人はいませんでした。当時三十七歳の幸一さんは、一番の若手。見よう見まねで、かすみそう栽培を始めたものの、最初は苦労の連続だったといいます。

「農家さんというのはみな寡黙。わたしのことも『どうせ一年くらいで辞めて帰るだろう』と思っていたと思います。人のやり方を見たり聞いたりしながら、なんとかお金が稼げるようになるまでに十年はかかりました」
幸一さんが昭和村で受け入れられたのは、トラックドライバーの経験があったからだといいます。
村ではかすみそうの販路を広げるため、年に数回、全国の市場を訪問します。そのさい、ドライバーとして全国の道を知っていた幸一さんは、生産者の代表をレンタカーに乗せて市場を回る役割を任されました。

「市場へ移動する道中で部会の役員と話すようになり、だんだんと重宝されるようになったんですよ」
就農から十五年後の五十二歳のとき、立川さんは昭和かすみ草部会の部会長に推されるまでになりました。
また、昭和村では雪室を活用して集荷や保存、配送までを低温でする「パーフェクトコールドチェーン」を確立。においを抑える「におい抑制トリートメント」を使用する(※)など、ブランド化の推進でも幸一さんは一翼を担いました。
※かすみ草には独特のにおいがあり、産地ではにおいを抑制することが長年の課題となっていた。
離農者ゼロ 若返りに貢献
そんななか、昭和村では、新規就農者の受け入れにも力を入れています。
移住者への行政の補助事業を基に、JA会津よつばがハウスや圃場の提供を手配。部会でも「かすみの学校」をつくるなど、研修の仕組みを充実させました。
その中心的な人物として活動してきた幸一さんは「わたしも、なにもない所からスタートしました。就農する人たちの気持ちが、よくわかるんです」と話します。

「新規の就農者は家やハウス、機械など、なにも持っていないわけです。栽培法をていねいに教えたり、『この補助を利用したらいいよ』とサポートしたり、一年めから『食っていける』ようにしてあげること。それが、だいじだと思っています」
福島県では新規就農者の三割が、五年以内に辞めていくといわれます。しかし昭和村での離農率は、なんとゼロ。
きめ細かな支援の仕組みが機能し、現在は九十二あるかすみそう農家の三分の一が新規就農者で占められています。
部会の年齢層も四十~五十代が中心。
村の若返りにも大きく貢献しているのです。
幸一さんは、標高の異なる三か所に圃場を持っています。
以前は洋子さんと二人で作業をしていましたが、最近では息子の雄介さん(41)、娘の亜沙美さん(38)も後継者として働くようになりました。
「これからも、どんどん生産量を増やしていきたい」
そう語る幸一さんは満面の笑みで、こう続けました。

「この土地で、かすみそうが作られ始めて約四十年がたちました。今後も、仲間や家族と”百年産地”をめざしていきたいと思っています」
※当記事は、JAグループの月刊誌『家の光』2024年8月号に掲載されたものです。