「ご主人、脳梗塞です」──。
ある日の朝、働き盛りの夫を突然襲った脳卒中。
私=ライター・三澤慶子が綴る、葛藤と失敗と発見の記録『夫が脳で倒れたら』。今回は本書第2章より、急性期リハビリテーション開始時のエピソードを一部ご紹介。リハビリに際して思わぬ弊害となったのは夫の〇〇だった──⁉
回復を目指す3つのリハビリテーション
トドロッキーは右半身の動きを司る部分の脳が機能しなくなったけれども、脳って不思議。別の部分の脳がその役割を果たそうと学習を始める。この脳の学習の成果が出て機能するようになると右半身はまた動き出す。
ただ、熟練の脳がしてきたことをド素人で畑違いの脳がするわけだから、あまりうまくはいかない。野球経験のない文化部系の生徒を集めて作った即席ド素人野球チームで甲子園を目指すのと同じだ、多分。
このポンコツチームをまともな野球チームに育てていくのがリハビリテーション。
リハビリテーションは早い段階で始めるとよりよい回復に繋がっていくという。だから怪我しても病気しても、術後や発病後すぐにリハビリテーションは始まる。
トドロッキーのリハビリテーションは入院日の翌日から始まった。点滴をしたままリハビリテーションルームに移動し、麻痺の状態に則したトレーニングを受けてゆく。
こういう入院後すぐに始めるリハビリテーションを「急性期リハビリテーション」という。流れとしてはその後「回復期リハビリテーション」に移り、「維持期(生活期)リハビリテーション」を受けてゆくことになる。
それぞれのリハビリテーションを提供する施設は決められている。
「急性期リハビリテーション」は「急性期病棟」。坂の上脳神経外科病院は急性期病棟、いわゆる救急病院だ。セカンドオピニオンを受けた大学病院も急性期病棟。急性期病棟の使命は怪我や病気の処置だ。傷口が塞がってなかったりフラフラだったりするときにキツいリハビリテーションをやるわけにはいかないから、体の機能そのものの回復を邪魔しない程度にやる。
「回復期リハビリテーション」は、集中的にトレーニングする専門病院「回復期リハビリテーション病棟」で受けることができる。言わばリハビリ合宿。ここで社会復帰や家庭復帰に向けての機能回復が効果的に進められる。
回復期リハビリテーション病棟の入院条件は細かく決められていて、発症から2カ月以内の患者じゃなきゃだめだったり、疾患ごとに決められた期間内に転院しなきゃだめだったりするが、一般的には「急性期病院」での治療が終わり、医師判断で「回復期リハビリテーション病棟」へ転院が必要となれば、手続きは病院が主導してくれる。身を任せていればベルトコンベアに乗せられた感じでなんなく転院となる。
「維持期(生活期)リハビリテーション」は「クリニック」で受ける。デイサービスを提供している通所施設なんかはクリニックに当たる。
49キロの肉の塊
トドロッキーの坂の上脳神経外科病院でのリハビリテーションは、最初の一週間は日に日に麻痺が進んでいったため毎日トレーニングの内容が変わった。
リハビリテーション初日となった入院2日目は、主に動かしづらくなった手の動きについてのものだった。積み木を積み上げていくようなけっこう繊細なトレーニングだった。それが歩きづらくなった3日目はバーにつかまりながらの歩行、4日目はもうそれどころじゃなく、ベッドからの立ち上がりだったり車椅子に移ったりといった動作を安全に行なうためのトレーニングとなっていった。
この4日目の動作トレーニングはとてもありがたかった。このときのトドロッキーの体といえば、ただの肉と化した右腕と右脚が胴体からダラリと垂れていた。
トドロッキーは体重が98キロあったから、その半分、49キロの肉の塊が49キロの一本足の体にくっついている状態と言っていい。うまく動けるわけがない。ちなみにリハビリテーション病院も含めた入院生活約7カ月半でトドロッキーは30キロの減量をし、かなり身軽にはなった。
半身が巨大骨つき肉となった体では、それまで何気なくやっていた動作がいちいち超絶難しい。骨つき肉の方の腕と脚は、姿勢を変えるたびに動く方の手で持ち上げて収まりのいい位置に移動させていく必要がある。脚なら10キロを優に超えていたはず。これをいちいち片手で持ち上げたりずらしたりするのは難儀でトドロッキーは途方に暮れていた。そんなときの動作トレーニングだった。指導してくれたのは理学療法士だ。
例えば寝返りについてはこう指導してもらった。
「左足首で右足首をひっかけて、右脚を持ち上げるようにして寝返りをしてみてください」
なるほど。
理学療法士は実際にトドロッキーにその動きをさせて、できるかどうかを確認し、できなければ違う方法を考えて提案してくれた。
寝ている状態からベッドの縁に座るまでの手順だとか、座った姿勢から車椅子に乗り移る手順だとか、逆にどうやったら車椅子からベッドに戻ることができるか、トイレ内ではどうすれば一人で用を足せるかなど、できるようになるまでトレーニングしてくれたのだが、これが本当に有り難かった。
指導される動作はカスタマイズされてたり完全オーダーメイドだったりする。へえ、リハビリの現場の仕事って創造力をものすごく使うんだなあ、できないことがあっても、できることを組み合わせてオリジナルで工夫していけば意外とやれちゃったりするもんだよなあ、なんて至極当然のことだけど、改めて知らされた。
我が身を振り返れば、できなくて落ち込むことって山ほどある。身体能力的なこと以外でもそう。それでも今まで生きてきたってことは、数少ないできることを駆使してなんとかやってきたんだと思う。そういうことなのかな。
硬い!!!
トドロッキーはもともと体が硬い。嘘でしょってくらい硬い。トドロッキーほど体の硬い人をほかに知らないから、初めてその硬さを目の当たりにしたときは衝撃を受けた。
生活の中で、そこは姿勢的に屈んだ方がいいだろうっていう場面は結構あるけれど、トドロッキーは体を伸ばしたままで乗り切ってきた。見た目は非常に奇妙だが不思議とやれていて、だから本人も問題意識はなかったと思われる。
でもこの規格外の硬さがまんまリハビリテーションの場で物議を醸すこととなった。
脚を伸ばして座ることは全然できない。ということは90度のお辞儀ができないってことで、せいぜい45度か。膝も硬いから正座もあぐらも無理。足首も硬くてしゃがむ姿勢もできない。これらはもちろん発病前のことだ。
このレベルになってくるとソックスを履くのも難しく、工夫を凝らした手順で行く必要がある。しつこいようだが発病前のことだ。トドロッキーは踏み台とか椅子の段差を利用してソックスを履いていたのだった。
足の爪を切るのも大変だ。なんとか自分で切っているが、いつも切り方がひどく雑でガタガタだった。
で、この体の硬さが理学療法士を驚かせた。発病したからって体が柔らかくなることはないわけで。片手で靴やソックスの着脱、着替えといった日常生活をこなす練習をすることになったが、このときにトドロッキーの体の硬さが大問題となった。
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この続きは『夫が脳で倒れたら』本書にてお読みいただけます。
本書では、試し読み記事で紹介された内容の他にも、当事者とその家族ならではのエピソードや、それに付随する医療情報などが盛りだくさん。入院やリハビリ、在宅復帰への不安や、復帰後の生活のHow toなど、「同じ境遇の人の役に立ってほしい」という著者の思いが込められた一冊です。
*本文中に出てくる病院、医療関係者、患者などの固有名詞は仮名です。