紀伊国屋じんぶん大賞入賞作『水中の哲学者たち』で話題の永井玲衣さんによる新連載「ねそべるてつがく」。つねに何かを求め、成長し、走り回らなければならない社会の中で、いかにして「考える自由」を探し求めることができるのか。
映画で泣いているひとを見るたびに、このひとはどうやって泣き止むのだろうか、と思う。
映像の中のひとは泣いている。シリアスな音楽がかかっている。何か衝撃的なことが起きたのだ。海に向かって絶叫し、涙がびちゃびちゃと出ている。目から水が出るということ自体が奇妙なのに、それがうつくしく感じられるなんて不思議だ。カメラがぐるぐるとまわって、泣いているひとを効果的に映している。おお、と身を乗り出して見つめる。映画の中のひとは、手で顔を覆い、座り込む。まだ涙は流れている。感情がまだおさまっていないのだ。
だが映画は終わる。仕方のないことだ。
現実は、あまりすてきではない。もちろん、すてきなときもあるが、何というか「いい感じ」にならない。
散歩をしているとたまに、深く考え込むことがある。そういうときは決まって、足早になる。自分のこれまでの経験や考えを目まぐるしく参照し、問いにぽこぽことぶつけていく。問いは強固で偉大だから、すぐには壊れない。壊そうとも思っていない。ただその跳ね返りの仕方を見ている。
そのせいか、目の前の光景を見ることを忘れる。気がつくとなぜか駅の改札に入っている。目的もなく陽の当たるほうに歩くので、知らずのうちにどこかへ入っていることがあるのだ。無意識で財布を取り出し、改札を通り抜けていることにおどろく。
あるいは、こんな日もある。夜に近所をふらふらしていると、考え込んでしまうときがある。感傷的になることすらある。なぜ自分は生まれてきてしまったのだろうかと、問いがへばりついてしまう。公園の植え込みに座り込み、うっかり悲観的になる。目の前にある誰もいない滑り台、砂場、ブランコを見て、無責任な悲哀を感じてしまう。
そんな風に問いに集中しているとき、突然犬に吠えられたりする。その音に心底おどろき、身体がはねてしまう。腕に大切に抱えていた、あやふやで脆い考えたちが手からすべりおち、すべて粉々になってしまい、もう二度と思い出せない。

映画みたいにいかない。小説みたいに「いい感じ」にならない。現実はぬるりとしている。取るに足らないことが重なり合い、魅力的でなく、ださいことに満ちている。
たとえば、ひとが泣き止むとき。床にへたりこんでしまい、慟哭したあとに、感情がだんだんと落ち着き、立ち上がる瞬間。別れ話をしたあなたと離れ、とぼとぼと歩き、駅のホームから電車に乗って、空いた椅子に座るその中腰の瞬間。その顔。話し合わなければならないものごとが立ち上がり、あなたと気まずい議論をくりひろげ、何とか終わらせた次の日の、最初に目が合ったその時。
あなたは涙を流している。
だが、ふいにBluetoothスピーカーが、信じがたい音を立ててエラー音を響かせる。もしくは、スマホから間抜けな通知音がする。どうでもいい電話がかかってきて、対話が中断させられてしまう。
映画であれば、それは何か必要な電話であったり、そのエラー音によって気づきが生じたりする。それに反し現実では、それは全く本筋には関係ないただのノイズであり、生活であり、暮らしの残滓である。
しかも現実では厄介なことに、そのまま緊張感のある時間がなんとなく途切れてしまったりする。映画であれば「邪魔が入っちゃったね」などと笑いあうのかもしれないが、現実を生きるわたしたちは特にそれについて言及もせず、なんとなく充電器を片付け始めたりなどする。
うやむやで、いいかげんで、魅力的でない生の瞬間の山積。
考えるという行為も、そうした生の渦に巻き込まれていく。

「考える」ということには、どこか真剣な響きがある。
しっかりと問いを立て、誠実に立ち向かい、深く思考に潜っているイメージだ。考えているひとのイラストは、多くの場合、真剣な表情をしており、笑顔なことはほとんどない。だから、ときどき心配になる。真面目な顔をしたイラストたちは、いつ普段の日常に戻るのだろう。そのとき、どんな表情で、どんな体勢で、どんな仕方で戻っていくのだろう。
「考える」ことには、問いに立ち向かい、解決を目指し達成するような、感動的な世界が広がっているかのように思える。しかし思い返せば、考えているときのわたしは、落ちていた服を拾って身につけたちぐはぐな服で、背伸びをして冷蔵庫のものを取るなどしている。落とし所を見つけられるわけでもなく、いつのまにか別のことを考えていて台所で立ったままプチトマトを食べている。時間が経ちぐずぐずになったプチトマトは、歯で押しつぶすと、何ともいえない味がする。
考えることもまた、時にぬるっとしているのだ。ださくて、みっともなくて、感動的ではない。
だがそれによって、ごまかしたい日もある。

問いに対する誠実さは、必要な時も多くある。むしろほとんどである。それでも、うやむやで、いいかげんで、魅力的でない生の隙間に、だましだまし、ぬるりと潜ませたい日もある。日々のこのどうしようもない瞬間をむしろ利用して、あまりに切実すぎる問いを、少しだけずらして考えようとすることがある。
問いは重い。抱えきれない。真正面から見ることができれば、どんなにすてきだろう。かっこいいだろう。問いに立ち向かい、真剣に悩むことができたら。
抱えている腕が疲れて、問いを落としてしまいそうになる。目の前に座らせて、問いの顔を見て、手をにぎり、話し合うことができたら、なんてすばらしいだろう。問いのすがたをしっかりとらえて、輪郭を確かめられたら。それを毎日、辛抱強く続けることができたら。
だが、あまりに切実な問いは、目の前に座らせることはできない。抱えきれずに足元に落ちた問いから目をそらし、知らないふりをする。問いは怒って、わたしの足にしがみつく。だから、どこへも行けなくなってしまう。
それに、問いと話すのには時間がかかる。問いの体力は無尽蔵だ。問いは決して疲れない。有限な身体をもつわたしたちは、すぐに疲れてしまう。
いや、わたしたちはすでに、ずたずたに疲れている。人生に、労働に、社会に。夜に身を寄せ合う電車の中で、つり革に自分をかろうじてひっかけているあなたは、これから家に帰るのだろう。空腹で食欲のない胃をぶらさげて、スーパーの惣菜を電子マネーで買い、少しだけべたっとしたプラスチックの容器を右手に、暗い道を歩くのだろう。
大きく見開かれて動かない彼らの目は、受け身に海と空を反映していた。もうじき彼らは家に帰り、家族だけで食卓を囲んでお茶を飲むだろう。今のところ彼らはできるだけ費用をかけずに生きようと、動作も言葉も思考も節約して、力を抜いて浮身をしているのだ。一週間の労働が与えるシワや、目尻の小じわ、つらい皮膚のたるみを消すのに、彼らはたった一日しか持っていない。たったの一日だ。彼らはときが指のあいだから刻々と流れ去っていくのを感じていた。月曜日の朝に気分一新して再スタートするべく、充分な若さを蓄えるだけの時間があるだろうか?
『嘔吐』ジャン=ポール・サルトル / 人文書院 / 2010年 / 90ページ
たった一日しかない、その一日すら溶けてしまうような日々。このような中で、足元にしがみつく問いと、どのように対話するのだろうか。わたしたちは宙吊りになってしまう。
そういうときは、だましだまし考える。ぬるりと考える。はっきりと、真正面から、立ち向かうことから、少しだけ目をそらす。うやむやで、いいかげんで、魅力的ではない態度かもしれない。
プチトマトを食べながら、味気ない道を散歩しながら、定食屋で「プラス50円で豚汁に変更」の食券を買いながら、ちょっとずつ考える。深く思考に潜ったり、手を動かしたり、そうやって生きている。
問いから目をそらす。でも、そばにいつづける。だから考えられるということがある。