『平家物語』における語るケア/第6回 ぼんやり者のケア・カル...の画像はこちら >>

祖父の盛りまくり「死ぬかと思った」被災体験

祖父はよく、満州で兵隊をしていた時代のことを幼い私に面白おかしく話してくれた。内容はほとんど覚えていないが、講談のような軽快な語り口が耳に残っている。関東大震災の被災体験を、世紀末サバイバルアクション風に語ることもあった。

当時はハラハラしながら聞いていたが、大人になって計算したら、被災当時祖父は幼児だったことがわかって脱力した。そういえば祖父の葬式の帰り道、他の家族が祖父のほら話の思い出で盛り上がっていた記憶がある。どちらの体験談も、大いに話を盛っていたのだろう。

戦争も震災も、トラウマ必至の凄惨な体験には違いない。それをわざわざ興味をひくようなお話に仕立て、人に聞かせようとするのは、考えてみれば不思議なことだ。とはいえ自分も、死ぬかと思うような出産体験を面白おかしくmixiに書き込んだことがある(あまりに臨場感をこめすぎたせいで、年下の同僚から「子どもを産む気が失せた」という率直なコメントが寄せられた)。思えばSNSは、死ぬかと思うような体験語りの宝庫なのだった。

『平家物語』とケア

話題のアニメ『平家物語』は、講談の祖とされる軍記物語『平家物語』を原典につくられた作品である。俯瞰の視点で描写される通常の歴史ものと違うのは、アニメオリジナルキャラである琵琶法師の少女“びわ”の視点が導入され、原典の語り芸が活かされている点だ。

『平家物語』が鎌倉時代から日本各地で語り継がれてきた庶民に大人気の一大娯楽コンテンツなのは知っていた。だが、私にはその人気がいまいち腑に落ちなかった。強く美しいヒーロー義経ではなく、しくじる側の話が面白いのだろうか? 大衆は「おごれる者」が自滅するさまをスカッとジャパン的に楽しんでいたのだろうか。

確かに平家のメインキャラ平清盛は、原作同様このアニメでも邪悪なジジイとして登場し、裕福な家で優しく文化的に育てられた一門の若者たちを困らせる。

だが、アニメ版では彼なりの正義が語られる。

清盛「各地で反乱が起こっても収めることもできず、何もできぬ貴族と偉そうにするばかりの坊主が支配する、身分と権威がすべての世を、我らは変えた。息苦しい世界に風穴を開けたのだ。富と武力でな」

(第6話)

武士という身分への差別を乗り越え、自由貿易で金を貯え、貨幣経済を進展させた清盛にとっての正義は、武士らしい忠や孝ではない。個人の力で階層移動をして旧弊な体制を打破すべきとする彼の価値観は、現代ならネオリベラリズムと呼ばれるものに近いかもしれない。若い頃の清盛は、確かにヒーローだったのだろう。

ヒーローも老いれば老害となる。力を見せつけようと無駄に敵を増やし、身内をも権勢欲を満たすコマとして扱う清盛に、嫡男の重盛は頭を抱える。アニメ版での重盛は死者の姿が見える目を持つ能力者であり、平家が滅びることを予見している。未来が見える目を持つ琵琶法師の少女びわを屋敷に住まわせたのは、平家を滅亡から救うためだった。

面白重視なネオリベ父に対し、生真面目で心優しい重盛は、忠孝という家父長制下の正義を生きる優秀な武士として描かれる。ところが忠を尽くすべき後白河法皇と孝を尽くすべき父が対立したことで、重盛は引き裂かれてしまう。

父に思いとどまってもらうよう神仏に頼るしかなくなり、やがては自ら死を願うまで追い詰められる。強く優しい重盛も、ヒーローにはなれなかったのだ。びわを優しく迎え入れた重盛の息子たちも、優しさゆえに殺すか殺されるかという日々に耐えられず、少しずつ病んでいく。

アニメ版『平家物語』は、平家の若い武士たちの優雅な日常、そこから蟻地獄のように破滅へと巻き込まれていく彼らの傷つきを丁寧に描きだす。そのなかで、もっとも強く美しいヒーローとして描かれるのは、清盛の娘・徳子である。徳子は身分も定かでないびわを優しく迎え入れるだけでなく、びわと話すとき、必ず彼女の目線に合わせるようにしゃがみこむ。自然なケアができる女性である徳子は、同時に自分が女であることに絶望している。男の格好をするびわに、徳子は「女なんて」とぼやく。女の自分は兄弟のように自分の力で戦うこともできず、政略結婚の道具になるしかないからだ。

清盛の希望通り、徳子は年下の天皇のもとに嫁ぐ。ところが天皇は美しく賢い徳子に気おくれし、ほかの女性たちとねんごろになってしまう。徳子は徳子で、天皇の兄の以仁王を殺した清盛の娘であるという引け目もあり、嫉妬もできない。

他者の心情がわかりすぎるほどわかってしまう徳子は、他者の欲望に振り回されるあきらめの果てに、「泥の中でも咲く花」になろうと決意する。

でも私は許すの。父上も上皇様も法皇さまもみんな。

許すだなんて偉そうね。

でも、どちらかがそう思わねば、憎しみ、争うしかない。

でも私は、世界が苦しいだけじゃないって思いたい。

だから私は許して、許して、許すの。

(第5話)

武家社会では女単体では権力をふるえないから、フィクションで活躍する武家の女性といえば、北条政子のように夫・息子を影で操る存在として描かれることが多い。だが徳子は、そのような活躍の仕方はしない。ケアする者としての責任を引き受けた徳子は、権力者の欲望によってもつれた関係性の綻びを修復するために生きる。愛人のもとに通っていた天皇(のちに上皇)が寝込めば手厚く看病し、老いた法皇の後宮にさせられた異母妹を訪問して慰める。清盛への愚痴が止まらない法皇をなだめるため、(地位の高い女性は通常口にしない)今様を歌ってパーティー好きの法皇を喜ばせる。

当時の貴人としては珍しく、息子である安徳天皇を自分の手で世話する。幼い安徳天皇を背負って雨の中を徒歩で落ちのびるときも、お供の者への気遣いを欠かさない。

徳子は、運命や歴史を変えるようなはたらきをするわけではない。しかし平家一門の中で最もヒーロー然として描かれるのも、ケアの倫理を生きる徳子なのである。

「望まぬ運命が不幸とは限りませぬ」「望みすぎて不幸になった者たちを、多く見てまいりました」と語る徳子は、ある面では父の権力欲の犠牲者である。しかし同時に、自分の人生をコントロールできない状況におかれても、ケアに生きることによって尊厳を手放さないという倫理を体現する存在でもある。

原作の大筋は鎌倉時代に成立しているから、男社会に都合のいい女性像ばかりだというそしりは免れない。だが徳子を単に運命に流される女性ではなく、自らの倫理を生きる女性として描き直すアニメ版では、ある場面が追加されている。上皇の死後、徳子を法皇に嫁がせようと清盛が提案したとき、徳子はこのように返す。

「わたくしをまだ父上の野心の道具になさいますか」「上皇様よりほかにお仕えする気はございませぬ」

(第7話)

遺された幼い安徳天皇をひとりで守るという責任を引き受けた徳子は、兄・重盛と違い、孝でも忠でもなく、ケアを優先したのである。

アニメのオリジナルキャラであるびわもまた、徳子とは異なる形でケアを行う。徳子の心の動きを物語の中で知るのは、おそらくびわだけである。

無力な女であるからこそ安心して法皇が政敵の娘である徳子と打ち解けられるように、徳子は権力関係の外側にいるびわにだけ、本音を打ち明けることができる。折にふれてびわに話を聞いてもらうことで、徳子は苦しみを対象化し、「泥の中でも咲く花」になりたいという今様の歌詞に寄せた自らの物語を組み立てられるようになったのではないだろうか。

「見とうない。見ても何もできぬのなら、何も見とうない」

(第4話)

コントロールできない人生とナラティブ・セラピー

平家一門の悲惨な未来が見えても、未来に一切関与できないびわは、劇中そのことで苦しみ続ける。やがて、破滅を見届けて琵琶法師として語ることが鎮魂になると悟ったびわは、死者を物語る力によって徳子を救ったあとで視力を失い、『平家物語』を語り継ぐ者となる。生き残った徳子も、死んだ者たちが竜宮にいるという夢物語を語り、落ち込む後白河法皇を慰める。

兵藤裕己『琵琶法師―“異界”を語る人びと』によれば、琵琶法師に盲人が多いのは、自己の統一的イメージを視覚的にもたないことにより、自己の輪郭を容易に変化させて異界のものを憑依させることが可能な存在とみられていたからだという。

たとえば、恩赦の舟が俊寛を残して鬼界ヶ島を離れる有名なシーンを描いた第4話。琵琶法師が語る「跡は白波ばかりなり」のくだりは、置いてきぼりになった俊寛の目に映る光景である(アニメ版でもびわのこの語りのところで俊寛側の視点に切り替わる)。このような描写は原作のみならず、アニメ版のあちこちにみられる。海に落ちる寸前の平清経の目に映る鳥と月。平敦盛の目に映る熊谷が振り上げる刀。

琵琶法師の語りがたびたび語られる対象に転移するように、アニメの視点も無念の瞬間の登場人物に転移する。視点が登場人物に切り替わるとき、見ている私たちも彼らの無念にたやすく巻き込まれる(教科書で読んだ「泣く泣くぞ首をぞかいてんげる」のくだりが、こんなに悲しい瞬間だったなんて)。おそらく『平家物語』を聴いていたかつての庶民も、同じように涙したのだろう。強く美しいヒーローでもなんでもない自分の、コントロールのきかない人生の無念を物語に託しながら。

琵琶法師は自己の輪郭をもたないことで、異界の者たちに声を与え、聞き手の感情移入を促す。『ケアの倫理とエンパワメント』(小川公代/講談社)では、このような自己のありかたが、チャールズ・テイラーの「多孔的な自己」という用語で説明される。近代的な「自立した個」とは異なる「多孔的な自己」とは、精霊や神などの外的世界の侵入を受けやすいゆるやかな輪郭をもった前近代的な自己である。ケアの実践には、このような他者に開かれた存在であることが重要となるという。

親から与えられた名前を捨て、母親とも決別し、視力を失ったびわは、もはや個人としては生きない。そもそも定まった身分を持たない彼女が公達や法皇と親しくなり、その人生を目の当たりにできたのも、人間というより野良猫のような存在だったからだろう。ときおり挟み込まれる白髪となったびわの語りは、その匿名性ゆえに平家一門の無念をいっそうきわだてる。極力アニメーション的誇張を排した作画も、同じ効果をもたらしているように感じられる。

自分の経験に意味を与える物語を語るといういとなみを通じてPTSDなどを治療する心理療法を、ナラティブ・セラピーと呼ぶのだそうだ。ナラティブ・セラピーにおいては、患者が治療者に自分の体験を語ることで、現実をつくりなおしていく。治療者は客観的な現実はないという前提に立ち、なるべく自分の解釈をおさえ、患者の語りを促す。このような対話を通じて、患者はつらさを個人が抱える問題ではなく、社会的なコンテキストのなかでとらえなおすことにより、問題を自分の外側にあるものとしてとらえられるようになるという。

確かに、自分ではどうにもならない運命に翻弄されるつらい体験も、自らの視点で語りなおせば主体を取り戻すことができる。それが喜劇であっても、悲劇であっても同じことだ。おそらく祖父も、震災や戦争の体験を自分を主人公として語るとき、一国民として大きな運命に巻き込まれざるをえなかった無力感を払拭し、強キャラとしての自分を作り上げていたのではないだろうか。そして私たちは他者の物語を聞くとき、自分のしくじりやつらい体験も、また物語として見つめなおしている。

有名な怪談『耳なし芳一』(小泉八雲)も、平家の亡霊たちのナラティブ・セラピーの話なのかもしれない。『平家物語』の話なんて、当事者の怨霊たちが一番よく知っていそうなものだけど、わざわざ怨霊たちは琵琶法師を呼びつける。自分たちの失敗の数々を、大きな運命に巻き込まれた致し方のない悲劇として語りなおしてもらうことで、みんなでおいおいと泣くために。もしかしたら、芳一が和尚の入れ知恵をきかずに一週間『平家物語』を語り続けたら、怨霊たちも「泣けた……」「爆エモだったよね……」「セトリが神ってたよね……」とすっかり鎮まって、芳一の耳の代わりにサイン入りチェキでももらって大人しく帰ってくれたかもしれない。芳一を八つ裂きにするのが目的だったなら、初日にすればよかったのだから。

怨霊なほケアを欲せり。いはんや俗人においてをや(ベベベン)。

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Credit:
堀越英美

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