ふやけて崩れたハンバーガー、やる気のない食堂の冷たいからあげ、サービスエリアの伸びきったうどん……。おいしくなかった食事ほど、強く記憶に残っていることはありませんか。
「1年で絶対戻れるようにするから本社に行ってくれないか」と人事部長から懇願された時は、正直やった、と思った。つまるところ単身赴任。既婚の女でしかも成人前の子どももいるのに、そんな役割を与えられるじぶんは会社に認められているんだと実感できたのだ。
本社広報室の副室長が急病で長期入院ということで、突如わたしに降ってきたのはその代理というポストだった。期限付きだが、いちおう出世。今勤めている支社でも似たような役割に就いていて、日頃から本社と連携する機会の多かったわたしが最も適任だということだ。家族で暮らす自宅から本社まで、特急を使っても片道3時間はかかる。リモートワークも活用すれば通えなくもなかったが、副室長の代理となるとやっぱり毎日の出社を前提にしたほうが安心だった。いったん夫と相談させてください、とは言ったものの、ほぼ二つ返事で引き受けたようなものだ。
今の仕事は好きだ。子どもがいると言ってももう息子は中学生だし、待遇も上がるなら、これから先に控えている受験費用を多少なりとも工面するような心持ちで、翌週には正式に辞令を受け取った。
結婚前に一人で暮らしていたのとどことなく似たワンルームのマンションをさっさと契約し、引越し業者の屈強な青年たちがテキパキテキパキと自室に段ボールを運び込んでいく様子をながめる。今どきは「まるっとおまかせプラン」なんてのがあって、既定の料金さえ支払えば荷造りから荷解きまでなんでもやってくれるので助かる。なんてったって数十年ぶりの一人暮らしだ。置いてきた夫と息子に対して心配事がないといったら嘘になるけれど、それとは別にどこか浮き足立っているじぶんも認めざるを得なかった。毎週末は無理かもしれないけど頻繁に帰るつもりだし、彼らは彼らで、気も合うようだし楽しく暮らしていけるだろう。青年たちに荷物の置き場をあれこれ指示をしているとあっという間に荷解きは終わって、それなりに整った部屋ができあがる。
失礼しまーすと口を揃えて、野球部の練習終わりのように青年たちが去っていく。そうだ、差し入れを買ったのだった。これみんなで飲んでくださいねと言って、10本入りの栄養ドリンクをそのうちのひとりに渡すと、うわーあざまっす!と屈託のない笑顔が返ってくる。歳を重ねていいことといったら、こういう行為にいちいち言外の意味が伴わなくなったことだ。おばちゃんからのお礼の気持ちの品。それ以上でもそれ以下でもない。青い背中をほがらかに見送ると、しんと静かなわたし一人の空間がそこにあった。スマホで写真を撮って、家族のグループラインにぽんと送る。「引越し終わったよ」。手伝いに来ようとしてくれた二人を制し、安いからとわざわざ選んだ春休み前の平日だ。
まだ桜も咲かない時期ではあったが、日差しもあってやけにあったかい。フローリングに寝転がってみると、そのままいくらでも眠れそうな気がした。し、実際にいくらでも眠ってもいっこうに構わないのだと思うと、胸の奥底からわきあがるようなうれしさがあった。と、同時におなかが空いてくる。食糧品の類はこれから買いに行かなくちゃいけないのだ。睡眠欲と食欲を天秤にかけ、かちりと傾いた食欲を満たすべく上着を羽織って出かけることにした。隣の人に引越しの挨拶を、と思ったけれど、単身用のマンションではそんなことは今どきしなくていいらしい。ポストにも玄関にも表札のないマンションというのは、ちょっとしたカルチャーショックだった。曲がりなりにも女の一人暮らし、ワンフロアにたった2世帯しか入居できないこじんまりした廊下の反対側の住人が、どんな風貌なのか少し気になった。
都内といっても、主要ターミナル駅からはすこし外れた絶妙な立地だ。マンションの周辺をぶらぶら歩いてみれば、こじんまりとはしているものの商店街は健在だし、昔から住んでいる人も多いんだろう、年季の入った一軒家や、古そうな喫茶店にスナックもちらほら建っている。
商店街を離れると、今度は小さな川沿いに3階建てのスーパーを見つける。あ、ここは普段の買い物にちょうどいいかもしれないな。大きすぎも小さすぎもしない、さすがにショッピングモールとは言い難い規模感だが、2階には衣料品、3階には日用品のフロアもある。今はあまり言わなくなったけれど、ショッピングセンターという形容がふさわしいだろう。蛍光灯の照明はどことなく薄暗く、館内ではお買い得品を知らせる館内アナウンスがどことなくだるそうに垂れ流されていた。
1階フロアはスーパーで、とりあえず調味料や油のたぐいを買っておかなくちゃ、とカートをがしゃこんと引っ張り出して歩き始める。いつもの感覚より生鮮食品は少し割高に感じたけれども、総じて高くも安くもない。規模感もあいまって、このちょうどいいショッピングセンターのことをわたしは早々に気に入ってしまった。とりあえずと思って、スパゲッティの乾麺やレトルトカレー、菓子パンなどをカゴに放り込んでみる。
一時は夫に料理を担ってもらおうかとも考えたけれども、まだまだ好き嫌いのはげしい息子のことを考えれば、なるべくいいものを食べさせたい。そのじぶんなりの細かいこだわりが邪魔をして、実行には移さなかったのだ。家族として人と一緒に生きていくということは、こんなにも食事のことを考えなくちゃいけないだなんて、結婚前には思いもしなかった。どんなに料理が好きな人だって、そこはきっと共通する感覚なんじゃないだろうか。こんなふうに思うのは、わたしだけなんだろうか。
生鮮や日配品コーナーの先には、小規模だが総菜売り場がぺかぺかと照明を光らせていた。小分けのパックに詰められた総菜が並ぶケースの脇には「つくりたて!13時30分 からあげ/ピザ/メンチカツ」と書かれたホワイトボードが立てかけられている。
息子にはとても見せられないようなわんぱくなカゴの中身で会計を済ませてレジを抜けると、出口につながる通路に面した形で、これまたこじんまりしたイートインスペースがあるではないか。どうやらスーパーで買ったものに関してはここで食べてもいいという決まりになっているらしい。少し疲れたし、買ったばかりの総菜をここで食べちゃおう。
こぢんまり、と思ったけれど、中に入ってみればスーパーの併設にしては長椅子もテーブルもやけに大きいものがいくつも置かれていて、それなりに広い。真ん中にはセルフ式だがウォーターサーバーも用意されており、ここは買い物を終えた人々のちょっとした憩いの空間といったふぜいだった。シルバーカーに杖を立てかけて休むおばあさんに、外回りの途中なのか突っ伏して仮眠をとっている壮年のサラリーマン。空いていた席に腰掛け、買ったばかりのからあげのパックをぱかりと開けてつまんでみる。じゅわ、と厚い皮から脂が滲み出て、にんにくの香味が口の中に広がった。衣はけっこう厚めだがずいぶんパンチのきいた味付けで、食事というよりはなんだかビールが欲しくなってくる味だ。スーパーの総菜ってたいてい一人か二人で食べる用に小分けだし、あんまり買う機会がなかったけれども最近のものはずいぶん凝ってるじゃないか。バックヤードで量産されているであろう、できあいの総菜をすこし見直した。
隣では女の子がふたり、ポテトチップスやら紙パックのジュースやらを机に広げながらおしゃべりしている。無造作に床に置かれたスクールバッグには、なんとかジュニアハイスクール、と英文字のロゴが書かれていた。このあたりの中学生だろうか。否応なしに耳に入ってくる会話を盗み聞けば、彼女たちはどうやらまもなく卒業式を控える3年生のようだった。
「まって、卒業式まであと1週間しかないの!?」「いや1週間もあんじゃん。ね、式が終わったあとさー、カラオケ行こうよみんなで」「え、めっちゃいい」「もう予約しちゃう?」「そうしよ。もう卒業式の日はねー、10時まで絶対帰んない。いや、11時くらいまで遊びたいな。カラオケ終わったらさぁ公園いこうよ」「11時はやばくね? さすがに補導されるよ」「されないよ。卒業式だって言ったらねー、警察も見逃してくれるよ絶対」「そうかなあ」
ぽんぽんぽんとテンポ良くはじきだされる会話の、そのみずみずしさといったらなかった。10時なんてこちらの感覚じゃ、ちょっと残業した日の退社時間といったところだ。でも確かに息子がその時間まで遊んでいたら心配する。背も考えもどんどん大人に近づいてくるけれども、中学生とはまだ明らかに子どもだ。そばで交わされる会話のあまりのみずみずしさに、彼女たちの目の前に広げられたポテトチップスやチョコレート菓子や、さらにわたしの前に積み重なったからあげさえもぱーんとはじけて飛んでいってしまいそうだった。1週間後の夜11時のその公園へわたしも出かけて行って、彼女たちが気持ちよく健全な夜遊びにいそしむのを、保護者の顔をして見守ってやりたくなった。あなたたちだけじゃ危ないから、おばちゃんついていってあげようか、と喉元まで出かかったのをどうにかおさめる。得体の知れない人についてこられたら困るのは彼女たちのほうである。
女の子のうちひとりが、首からじゃらりと下げたスマホをチェックして、「やば! 今日の夕飯、からあげだって。やった~」と無邪気に笑い声をあげ、それからほどなくして二人は席を片付けて颯爽と帰っていった。「ウチのからあげめちゃウマイよ」「え、食べたい」
笑い声はだんだん遠のいていって、イートインスペースはそれからずいぶん静かな場所になった。無条件に用意される夕飯というもののありがたさに、彼女たちはきっといつか気が付くだろう。その微笑ましい光景は、それと同時にさっきまで億劫に感じていた料理という行為に、不意に意味が宿った瞬間だった。そうか、誰に言われるでもなくて、わたしがそうしたいからしているのだった。
中学生たちが去ったあとで、急に冷めきったからあげを再び口に運ぶと、不思議なことにそれは一口目の印象とはまったくかけ離れたものに変わっていた。冷えると味が変わるものなのか、にんにくの香りはすっかり飛んで、どちらかというとボソボソと味気ない鶏肉がわたしの目の前には横たわっている。衣と肉のあいだには、取り除ききれなかった余分な脂身のぶよぶよした塊がくっついていて不快だった。できあいの総菜は無論便利だし、手作りだとか無添加を過剰に信仰しているわけでもない。けれども決定的に何かが欠落しているような感覚があった。愛情だとか、手間だとか、そんなふうに陳腐な一言で言い表せるものではない。たとえばじぶんの両親の手料理とはどんなものであったか、わたしはすぐには思い出すことができなかった。おふくろの味と聞かれて、即答できない。記憶の片隅にあるようでなかなか引っ張り出せない、味の思い出がわたしにもあったはずなのだけれど……。
からあげ、今度会ったら息子にもっと喜んでもらえるように、今のうちに練習しておこうか。そう思い立って席を片付け、さっき通り抜けたはずのレジを逆走し、ふたたび売り場のはじめに戻って自己流からあげの材料を集めにかかる。望んでやってきた単身赴任生活の幕開けだというのに、不意に心細い気持ちになる。無条件に出される日に三度の食事。ありがたいなんて思ってくれなくていっこうにかまわない。今はまだ、その正体を知らなくていい、どうか知らないでほしい。
第8回につづく
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Credit: オルタナ旧市街=文