[鉄の暴風吹かせない 戦後80年]
[悲しや沖縄 戦争と心の傷](1) 第1部 連なる記憶 幸喜家(1)
朝日が冬空を染める中、自宅近くを歩く幸喜愛さん=12月18日午前7時過ぎ、沖縄市宮里(竹花徹朗撮影)
〈人々から非難されようとも、自己に忠実に生きようとした祖父の不屈の精神に、心から拍手を送りたい〉
沖縄市の幸喜愛(かなし)さん(58)は、高校時代に出場した全国弁論大会で、故・祖父松福(まつふく)さんの反戦平和への思いを発表し、最優秀賞に輝いた。
徴兵検査から逃れるため自身の指を切り落とした。
愛さんが2歳になる前に、77歳で他界した祖父の記憶はないが、時を経て県議となった今も尊敬してやまない存在だ。
一方で周囲から伝え聞く祖父には別の顔もあった。妻や娘を殴ったり、両手をひもで縛り上げたり。恐ろしくて、近寄りがたい空気をまとっていたという。
なぜ、あれほど暴力の最たるものの戦争を憎んだ祖父が、家族に手を上げたのか。
昨年、友人に誘われ参加した沖縄戦・精神保健研究会の会合で、「戦争トラウマ」の実例を耳にしてハッとした。「私の家族の問題も、戦争と関係があったのではないか」
祖父は沖縄戦で子どもたちを失ってから変わってしまったのだ、と確信した。
米軍上陸前夜の1945年3月末。松福さんと異なり、集落の呼びかけに応じた娘2人は日本軍の弾薬運搬に協力した。そして、そのまま帰らず命を落とした。
戦後間もなく息子まで不慮の事故で失うと、松福さんは激しく取り乱したという。
「祖父は戦争に対する怒りや悲しみを身近な人たちへの暴力という形で発散し、心の平静を保とうとしていた」と愛さんは思う。
愛さんはやがて父との確執も、戦争と無縁ではないと考えるようになった。祖父が抱えた心が壊れるほどの痛みは「子や孫の私たち世代にまで続いている」と気付いた。
娘や息子の遺影を飾った仏壇を背に座る幸喜松福さん(右)と妻のマカトさん=1966年2月、沖縄市宮里(幸喜愛さん提供)
◇ ◇
明治政府が琉球王国を解体した「琉球処分」から11年後の1890年。幸喜松福(まつふく)さんは具志川間切(現うるま市)で生まれた。父は那覇の久米村出身の士族。王国崩壊後、生活の糧を求めて地方に移ったが一家は貧しく、松福さんは4、5歳で、でっち奉公に出された。
日清戦争で勝利した日本政府は、沖縄にも徴兵制を適用した。松福さんが8歳の時だ。沖縄では徴兵忌避者が続出。体を傷つけたり、しょうゆを飲んで体調不良になったり。
5人きょうだいの1番上の松福さんは、奉公から解放された後、大阪へ。馬車屋として汗を流し、売られた弟や妹を取り戻したが、帰郷すると徴兵検査に直面した。
「自分が出征したら、家族の面倒を誰が見るのか」。銃の引き金を引けないよう自ら右手の人さし指と左手の親指の第1関節を山鉈(なた)で切り落とし、重い荷物を担げないよう腕の腱(けん)も抜いた。狙い通り検査には通らず、出征を免れた。
故郷を出て美里村(現沖縄市)宮里集落の外れに居を構えた松福さんは、13歳下のマカトさんと結婚。5女3男に恵まれた。
20世紀に入り、世界各地で戦時体制が強まっていた。沖縄では1944年10月以降、17~45歳の男性が防衛隊に召集された。さらに県は法的根拠もなく義勇隊を結成。45年3月には学徒隊として、学生たちも根こそぎ動員された。
戦争に否定的な松福さんは「イナグ、ワラビ(女、子ども)が行くようになったら戦は負ける」と村の徴用にも出向かなかった。周囲から「ひきょう者」「非国民」とののしられた。
一方、松福さんの19歳の長女シズさんは女子挺身(ていしん)隊に駆り出されていた。45年3月30日ごろ、16歳になったばかりの次女千代さんと共に、家族に何も告げず家を出た。2人は、反戦を貫く父との板挟みに遭いながらも日本軍第32軍石部隊の求めに応じ、弾薬を担いで読谷村の北飛行場方面へ向かった。
千代さん(左)とシズさん
「でーじなとーん(大変だ)。シズー、千代ー」。娘たちの姿がないことに気付いた松福さんは大声で叫び、草むらをかき分け、家々を巡って捜した。「お父は気が狂っていたぞ」。残った子どもたちは、集落でそう声をかけられた。
シズさんも千代さんも二度と戻ってこなかった。悲嘆に暮れた松福さんは怒りの矛先をマカトさんに向け、「何で出て行くのを止めなかったのか」と暴力を振るった。
80年前、帰らぬ娘たちを幸喜松福さんが捜し求めて歩いた自宅周辺=2024年11月21日、沖縄市宮里
◇ ◇
本土防衛の「捨て石」とされ、県民の4人に1人が亡くなったとされる沖縄戦。生き永らえた人々も戦後の出発点となった収容所で「悲(なちか)しや沖縄(うちなー) 戦場(いくさば)になやい(嘆かわしい沖縄 戦場になって)」(屋嘉節)と歌ったように、心にも傷を抱え生きてきた。子や孫の世代にも影を落とす戦争の痛みに向き合う。
鉄の暴風を吹かせない 沖縄タイムスの戦後80年テーマ
沖縄タイムスは戦後80年の節目に当たり、報道のテーマを「鉄の暴風 吹かせない」と決めました。激しい空襲や艦砲射撃が降り注いだ沖縄戦を形容する「鉄の暴風」は、沖縄タイムス社が1950年に発刊した戦記のタイトルであり、報道の「原点」といえます。
住民を巻き込んで20万人超の犠牲者を出した沖縄戦の教訓から、戦争を二度と繰り返さないとの価値観を読者と共有します。戦争体験者が少なくなる中、各地の証言に耳を傾け、さまざまな視点から沖縄戦を見つめ直します。朝日が冬空を染める中、自宅近くを歩く幸喜愛さん=12月18日午前7時過ぎ、沖縄市宮里(竹花徹朗撮影)">
娘や息子の遺影を飾った仏壇を背に座る幸喜松福さん(右)と妻のマカトさん=1966年2月、沖縄市宮里(幸喜愛さん提供)">
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80年前、帰らぬ娘たちを幸喜松福さんが捜し求めて歩いた自宅周辺=2024年11月21日、沖縄市宮里">
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[悲しや沖縄 戦争と心の傷](1) 第1部 連なる記憶 幸喜家(1)
朝日が冬空を染める中、自宅近くを歩く幸喜愛さん=12月18日午前7時過ぎ、沖縄市宮里(竹花徹朗撮影)
〈人々から非難されようとも、自己に忠実に生きようとした祖父の不屈の精神に、心から拍手を送りたい〉
沖縄市の幸喜愛(かなし)さん(58)は、高校時代に出場した全国弁論大会で、故・祖父松福(まつふく)さんの反戦平和への思いを発表し、最優秀賞に輝いた。
徴兵検査から逃れるため自身の指を切り落とした。
沖縄が戦時体制一色に染まっていく中、「非国民」とさげすまれながらも、徴用作業を拒んで「戦嫌い」を貫いた-。
愛さんが2歳になる前に、77歳で他界した祖父の記憶はないが、時を経て県議となった今も尊敬してやまない存在だ。
一方で周囲から伝え聞く祖父には別の顔もあった。妻や娘を殴ったり、両手をひもで縛り上げたり。恐ろしくて、近寄りがたい空気をまとっていたという。
なぜ、あれほど暴力の最たるものの戦争を憎んだ祖父が、家族に手を上げたのか。
昨年、友人に誘われ参加した沖縄戦・精神保健研究会の会合で、「戦争トラウマ」の実例を耳にしてハッとした。「私の家族の問題も、戦争と関係があったのではないか」
祖父は沖縄戦で子どもたちを失ってから変わってしまったのだ、と確信した。
米軍上陸前夜の1945年3月末。松福さんと異なり、集落の呼びかけに応じた娘2人は日本軍の弾薬運搬に協力した。そして、そのまま帰らず命を落とした。
戦後間もなく息子まで不慮の事故で失うと、松福さんは激しく取り乱したという。
さらに集落に協力的でなかった松福さんへの誹謗(ひぼう)中傷は戦後も続き、追い詰められたのだ。
「祖父は戦争に対する怒りや悲しみを身近な人たちへの暴力という形で発散し、心の平静を保とうとしていた」と愛さんは思う。
愛さんはやがて父との確執も、戦争と無縁ではないと考えるようになった。祖父が抱えた心が壊れるほどの痛みは「子や孫の私たち世代にまで続いている」と気付いた。
娘や息子の遺影を飾った仏壇を背に座る幸喜松福さん(右)と妻のマカトさん=1966年2月、沖縄市宮里(幸喜愛さん提供)
◇ ◇
明治政府が琉球王国を解体した「琉球処分」から11年後の1890年。幸喜松福(まつふく)さんは具志川間切(現うるま市)で生まれた。父は那覇の久米村出身の士族。王国崩壊後、生活の糧を求めて地方に移ったが一家は貧しく、松福さんは4、5歳で、でっち奉公に出された。
日清戦争で勝利した日本政府は、沖縄にも徴兵制を適用した。松福さんが8歳の時だ。沖縄では徴兵忌避者が続出。体を傷つけたり、しょうゆを飲んで体調不良になったり。
清国への亡命や移民を選ぶ人も後を絶たなかったという。
5人きょうだいの1番上の松福さんは、奉公から解放された後、大阪へ。馬車屋として汗を流し、売られた弟や妹を取り戻したが、帰郷すると徴兵検査に直面した。
「自分が出征したら、家族の面倒を誰が見るのか」。銃の引き金を引けないよう自ら右手の人さし指と左手の親指の第1関節を山鉈(なた)で切り落とし、重い荷物を担げないよう腕の腱(けん)も抜いた。狙い通り検査には通らず、出征を免れた。
故郷を出て美里村(現沖縄市)宮里集落の外れに居を構えた松福さんは、13歳下のマカトさんと結婚。5女3男に恵まれた。
20世紀に入り、世界各地で戦時体制が強まっていた。沖縄では1944年10月以降、17~45歳の男性が防衛隊に召集された。さらに県は法的根拠もなく義勇隊を結成。45年3月には学徒隊として、学生たちも根こそぎ動員された。
戦争に否定的な松福さんは「イナグ、ワラビ(女、子ども)が行くようになったら戦は負ける」と村の徴用にも出向かなかった。周囲から「ひきょう者」「非国民」とののしられた。
一方、松福さんの19歳の長女シズさんは女子挺身(ていしん)隊に駆り出されていた。45年3月30日ごろ、16歳になったばかりの次女千代さんと共に、家族に何も告げず家を出た。2人は、反戦を貫く父との板挟みに遭いながらも日本軍第32軍石部隊の求めに応じ、弾薬を担いで読谷村の北飛行場方面へ向かった。
千代さん(左)とシズさん
「でーじなとーん(大変だ)。シズー、千代ー」。娘たちの姿がないことに気付いた松福さんは大声で叫び、草むらをかき分け、家々を巡って捜した。「お父は気が狂っていたぞ」。残った子どもたちは、集落でそう声をかけられた。
シズさんも千代さんも二度と戻ってこなかった。悲嘆に暮れた松福さんは怒りの矛先をマカトさんに向け、「何で出て行くのを止めなかったのか」と暴力を振るった。
(戦後80年取材班・吉田伸)
80年前、帰らぬ娘たちを幸喜松福さんが捜し求めて歩いた自宅周辺=2024年11月21日、沖縄市宮里
◇ ◇
本土防衛の「捨て石」とされ、県民の4人に1人が亡くなったとされる沖縄戦。生き永らえた人々も戦後の出発点となった収容所で「悲(なちか)しや沖縄(うちなー) 戦場(いくさば)になやい(嘆かわしい沖縄 戦場になって)」(屋嘉節)と歌ったように、心にも傷を抱え生きてきた。子や孫の世代にも影を落とす戦争の痛みに向き合う。
鉄の暴風を吹かせない 沖縄タイムスの戦後80年テーマ
沖縄タイムスは戦後80年の節目に当たり、報道のテーマを「鉄の暴風 吹かせない」と決めました。激しい空襲や艦砲射撃が降り注いだ沖縄戦を形容する「鉄の暴風」は、沖縄タイムス社が1950年に発刊した戦記のタイトルであり、報道の「原点」といえます。
住民を巻き込んで20万人超の犠牲者を出した沖縄戦の教訓から、戦争を二度と繰り返さないとの価値観を読者と共有します。戦争体験者が少なくなる中、各地の証言に耳を傾け、さまざまな視点から沖縄戦を見つめ直します。朝日が冬空を染める中、自宅近くを歩く幸喜愛さん=12月18日午前7時過ぎ、沖縄市宮里(竹花徹朗撮影)">



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