1945年1月31日、米軍上陸必至とみられていた沖縄県に島田叡(あきら)知事が着任した。
 死地に赴くような人事だった。
それを承知で赴任したことが県庁職員を勇気づけ、新知事への期待を高めた。
 「この知事となら死ねる」。職員の誰もが人間的信頼を感じた、と疎開業務を担当していた浦崎純は書いている(「消えた沖縄県」)。
 内務省はなぜ、米軍上陸直前になって異例の人事を強行したのか。
 前任の泉守紀知事は、那覇が大被害に遭った10・10空襲の後、県庁に戻らず、中頭地方事務所にこもったまま執務を続けた。
 軍の要請に基づいて政府が決定した疎開に対しても消極的だった。
 軍と県庁の関係は何かとぎくしゃくし、うまくいっていなかった。
 後任として白羽の矢が立った島田知事は、第32軍司令部の牛島満司令官もイチオシの人選だった。
 2月7日、第32軍司令部の長勇参謀長が県庁を訪ね、住民の食糧確保と老幼婦女子の北部疎開を急いでもらいたいと申し入れた。
 島田知事は、不要不急の事務を全面的に停止し、戦争遂行のため、県の行政を食糧確保と県外疎開、北部避難に集中した。
 沖縄県の戦時行政が本格化するのはこの時からである。
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 戦時行政を担った島田知事と荒井退造警察部長は、沖縄県民の「命の恩人」「沖縄の島守」として映画でも教科書でも取り上げられるようになった。

 島田知事が人間的な魅力にあふれ、多くの部下から慕われたのは、証言からもうかがえる。
 だが「10万人を超す命を救った」とか、県内外に疎開した「約20万人の沖縄県民は2人によって命を救われた」などと強調することで見えにくくなるものがある。
 軍は作戦第一主義に徹し、住民の保護に関する最終責任を県知事に委ねた。
 その結果、何が起きたのか。
 軍は住民の保護を考慮せず南部撤退を決め、軍民混在の戦場で県は軍の判断に引きずられ、有効な手を打てないまま住民被害を増大させたのである。
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 島田知事は、法的根拠のない義勇隊の結成、戦場動員を市町村に指示した。32軍司令部が南部撤退を決めた直後には「沖縄県民へ」と題する檄(げき)を飛ばし、竹やりや鍬(くわ)を使ってでも米兵を殺せ、と徹底抗戦を呼びかけている。
 軍事を担当する牛島司令官と行政を担う島田知事。 2人が相携えることによって「軍官民共生共死の一体化」を実現していった、とみることもできる。
 どのような問いを立てるかによって2人の評価は変わる。私たちがこだわりたいのは「なぜこれほど住民犠牲が生じたのか」という点である。
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