戦局は緊迫の度を増していた。
 1945年2月10日。
県は、空襲で焼け残った県立第二中校舎で緊急市町村会議を開き、北部疎開計画の中身を明らかにした。
 3月末までに中南部の10万人を国頭郡に避難させる計画で、軍の意向に沿ったものだった。
 避難が認められたのは、戦闘の足手まといになると見なされた「老幼婦女子」。「可動力のある者」「戦える者」は避難の対象から外された。
 那覇から嘉手納までは県営鉄道があったが、利用は制限されていた。住民は持てるだけの荷物を背負い、男性の助けなしに、ひたすら目的地まで歩き続けた。
 受け入れ町村の協力で山あいにいくつも避難小屋が建てられた。
 避難民の1人当たり配給量は米1日1合2勺(しゃく)。配給所で50日分をもらい、それから避難小屋に向かったという(『沖縄県史各論編6 沖縄戦』)。
 避難してしばらくは良かった。米軍が沖縄本島に上陸し、島が南北に分断され、国頭が攻撃を受けるようになって以降、食糧事情は急速に悪化し始める。
 「山中の食糧難は、深刻をきわめていた。
避難民たちは、野草、そてつ、椎(シイ)の実、ヘゴ、川魚、青大将、やもり、みみずなど食べられるものは何でも食べた」「5月になると、栄養失調で死ぬ者が続出した」(那覇市史『沖縄の慟哭(どうこく)』)。
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 市町村史の体験記に共通しているのは、避難民の過酷な飢餓体験だ。
 九州各県に疎開した人々の体験記にも「やーさん(ひもじい)、ひーさん(寒い)」という言葉が頻繁に出てくるが、国頭山中の飢餓体験は、それとは異なる。
 戦争当時27歳の女性は『新大宜味村史 戦争証言集』に、こんな証言を寄せている。
 「人間はよー、食べ物がないと自然と死ぬ。現に死ぬの見たんだから」「食べ物がなくて、ヤーハジニー(餓死)するというのに、誰も見る人もいない。山の道によー、年寄りがこんなにガタガタ震えて、眼も開かない」「この人、翌日亡くなった」
 国頭の山中では、敗残兵が食糧強奪の非行を繰り返し、住民から「後門の狼(おおかみ)」と恐れられていた。
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 大宜味村喜如嘉では避難先の山から下りてきた後に、栄養失調やマラリアで死亡する人が続出した。
 避難民の死亡者は地元民の約7倍に達したという(福地曠昭著『村と戦争』)。
 沖縄戦は多様な側面を持っている。それぞれの地域に、それぞれの沖縄戦があり、それぞれの沖縄戦を貫く共通の特徴がある。
 北部の疎開先では、老人や幼児が栄養失調でばたばた死んでいった。

 それは第32軍司令部の住民保護を軽視した作戦第一主義がもたらした帰結というほかない。
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