昭和初期に旧京都帝国大学(現京都大)の研究者が今帰仁村の古墳「百(むむ)按司(じゃな)墓」から研究目的で持ち出した遺骨である。
沖縄に戻るのは1929年以来、96年ぶりだ。
遺骨を巡っては、2018年、百按司墓に祭られていたとされる第一尚氏の子孫らが返還を求めて京大に対して訴訟を起こした。京都地裁、大阪高裁とも「原告に返還請求権はない」として請求を棄却した。
ただし、大阪高裁は「持ち出された先住民の遺骨はふるさとに帰すべきだ」と付言し、話し合いによる解決の道を探るよう促していた。
近年、持ち出された遺骨や文化財を元の土地に返還するのは世界の潮流となっている。
今回の返還が実現したのは、こうした運動や元原告の訴えが背景にある。遺骨が本来あるべき場所に戻ったのは喜ばしい。
京都大が今帰仁村教委に遺骨の管理を移す形での「返還」となった。両者が交わした「移管協議書」では、遺骨は埋葬処理せず、学術資料として持続的に保存することを条件にしている。
元原告が訴訟で求めていた、墓に安置することとは対応が異なり、再埋葬しないことへの批判や研究に使用されるのではないかと懸念する声が上がっている。
遺骨は段ボール製のコンテナ15箱に収められ、「ふるさとで静かに眠る権利がある」と指摘した付言からは遠い。
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世界的に遺骨は、植民地主義や帝国主義を背景に持ち去られたものが多かった。
原告団長だった松島泰勝龍谷大教授は「植民地的な支配関係を利用した研究活動であり、学知の暴力ではないか」と投げかけた。
そうした学術研究は変わりつつある。
先住民族の権利を回復する運動が1960年代から世界的に盛んになった。日本では2010年代以降、アイヌ民族の子孫らによる遺骨返還訴訟が相次ぎ、保管先の大学や博物館から返還された遺骨が、アイヌの手で埋葬し直された。
県内でも、大阪府の国立民族学博物館が1970年代に研究目的で収集・保管していた、259年前のものとみられる厨子甕(ずしがめ)が、南城市佐敷津波古の門中に返還された。
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今回の遺骨返還に関して、京都大側から元原告側への説明や謝罪がなかったのは残念だ。
同大は、旧京都帝国大の研究者が沖縄から遺骨を持ち出した経緯や数、現在の保管数を明らかにしていない。
遺骨が持ち出されてから100年になろうとする今も不明なことが多過ぎる。情報を開示してほしい。
返還は実現したが、元原告が望んだ遺骨の慰霊や供養をどのような形で行うかも重要だ。
今帰仁村教委と京都大、県や元原告が、真摯(しんし)に対話する必要がある。