根こそぎ動員と地域の戦場化-。「軍官民共生共死」が徹底される中で起きた悲劇が「一家全滅」だ。

 首里陥落を目前に5月下旬の本島南部への撤退を決めた日本軍第32軍司令部は、最後まで抵抗する持久作戦を立て、喜屋武や摩文仁(現糸満市)の壕に立てこもった。
 当時南部への攻撃はまだ散発的で住民はガマなどに避難していた。そこへ軍が南下し地域は瞬く間に決戦場となったのである。
 「直径7キロほどの喜屋武半島は、住民と避難民合わせて十数万人と、約3万人の日本兵が混在する状況となり、そこに米軍がなだれこんできた」(『糸満市史資料編7戦時資料上巻』)
 そうした中であらゆる混乱が起きた。
 一つが日本兵による壕の追い出しだ。陣地使用を口実に多くの住民・避難民が銃弾の嵐へ追いやられた。
 当時14歳の大城藤六さんは家族7人で地元真栄平の自然壕アバタガマに避難した。4月の空襲で集落は焼失し住民約600人が逃げ込んでいた。
 ところが約1カ月後には全住民が追い出される。大城さんらは親族と共に墓に避難し、そこで米軍の爆撃を受け16人が即死した。
 「父の弟藤吉は、出征してフィリピンで戦死した。藤吉の妻と長男は実家の壕に隠れていたが艦砲で死亡した。
生き残ったいとこ3人を引き取って一緒に暮らしていたが、墓の直撃弾で亡くなり一家全滅した」(大城弘明著『鎮魂の地図』)
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 兵士と住民が雑居した壕でも悲劇は起きた。
 投降が阻止され、米軍の掃討作戦の犠牲となったのである。米須のンムニーガマで71人、アガリン壕では159人が命を落とした。
 日本兵は住民迫害にも及んだ。壕の追い出しに応じない住民に軍刀で切り付け、逃げる子どもを追いかけて殺した。方言が聞き取れないことを理由にスパイ嫌疑をかけて母子の首を切った兵士もいる。
 壕の中も外も逃げ場はない状況で「集団自決(強制集団死)」に追い込まれた住民も。一家全滅という最大の悲劇は、こうした凄(せい)惨(さん)な状況下で起きたのである。
 本島最南端、糸満の集落・束辺名では4分の1に当たる9世帯が一家全滅に。糸満全域では計440世帯に上る。
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 沖縄戦で最も犠牲者が出たのは32軍が撤退した以降の1945年6月だ。住民を含め戦没者の約6割がこの時期に集中した。

 あれから80年。糸満では今も一家全滅した屋敷跡があちこちに残る。戦後、屋敷跡に建てられた小さな拝所には香炉と湯飲みが置かれ、今なお地域の人々が供養している。
 一方、親族の高齢化などで土地の管理は年ごとに厳しくなっている。
 戦争は家族も根こそぎ奪う-。
 教訓をどう受け継ぐかが後世に問われている。
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