復帰後の政治史を彩った気骨のある政治家がまた一人、多くの人から惜しまれながら生涯を閉じた。
 嘉手納町長を5期務めた宮城篤実(とくじつ)さんが13日、老衰のため亡くなった。
89歳だった。
 嘉手納町生まれ。8歳の時、沖縄戦を体験し、北部に疎開した。
 戦後、早稲田大学に入学。寮の委員長に選ばれ、砂川闘争の現場に足を運ぶなど、学生運動にも参加した。
 復帰翌年の1973年から町議に4期連続当選。91年から2011年まで5期20年にわたって町長を務めた。
 町面積の約8割を米軍基地が占める嘉手納町。住民は、残されたわずかな土地で、爆音に悩まされながら、制約の多い生活を余儀なくされている。
 この八方ふさがりの状況を改善することなしに、町の発展はあり得ない。
 宮城さんが目をつけたのは、1996年に梶山静六官房長官が設置した「島田懇談会」だった。
 島田懇が進めていた沖縄米軍基地所在市町村活性化事業を千載一遇のチャンスと捉えたのである。

 「政府に取り込まれる」と懸念する声をよそに、実を取る現実路線を貫き、事業費200億円余をかけてロータリー地区などの再開発事業を手掛けた。目玉は那覇にあった沖縄防衛局の町内移転だ。
 「思い描いた政策の100%以上を実現できた」と自ら評価する。 
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 96年9月、普天間飛行場の嘉手納統合案浮上に危機感を抱き、「これ以上の負担は認められない」と北谷町、沖縄市に呼びかけ、三市町連絡協議会(三連協)を立ち上げた。
 相手が政府であっても、言うべきときは、臆せず言う。保守政治家を自任しつつも、その姿勢は揺るがなかった。
 町長退任後、脳梗塞で倒れ、政治の現場から離れていたが、知事選に出馬する翁長雄志氏に請われ、支援母体の会長を引き受けた。
 普天間飛行場の県内移設断念などを求めた建白書を高く評価し、こう語っている。
 「基本的に沖縄は弱い立場。弱者が仲間割れしては話にならない。権力者は分断して統治する。県民が強くなるには結束して事に当たることだ」
 宮城さんが亡くなった後も、この言葉が色あせることはないだろう。

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 過重な基地負担の中、町づくりに尽力した功績が認められ、2011年に沖縄タイムス賞を自治部門で受賞した。
 12年には県功労者として表彰されている。
 引退後は政治に関わらず、「年金を町の商店や飲み屋で使う。その方法で町おこしに貢献したい」と語っていた。
 この時代の政治家には、保守であれ革新であれ、ユーモアで場を和ませる政治家が少なくなかった。
 有権者はそこに、政治家の度量の広さを感じ、そこから政治家に対する信頼が生まれたものだ。
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