建立から30年 尽力した人々の軌跡
 「平和の礎」事業は1990年、知事に就任した大田昌秀さん(故人)が、戦後50年に合わせた構想「国際平和創造の杜(もり)」を提案して始まった。

糸満市摩文仁の丘に広がる「平和の礎」=2025年5月31日(ドローンで金城健太撮影)

 大田県政は91年、沖縄戦犠牲者を碑に刻む「平和の壁」建設、県立平和祈念資料館の移転・改築、国際平和研究所の設置の三本柱を重点施策に位置付けた。
92年3月には名称が「平和の礎」に決まった。

白い布がかけられた「平和の礎」の除幕を前に、「鉄の暴風を平和の波に変えよう」とあいさつする大田昌秀知事=1995年6月23日、糸満市摩文仁の平和祈念公園

 県は戦傷病者戦没者遺族等援護法(援護法)など16種類の公的名簿を基に、刻銘者名簿の作成を進めていた。だが、93年に発足した刻銘検討委員会の座長に就いた石原昌家さんが全戦没者調査の必要性を訴え、初の全戦没者調査の実施に踏み切ることになった。
 県は全53市町村(市町村合併前の当時)に呼びかけ、調査員1107人が93年11月末から聞き取り調査に取り組み、対象者は1万25人に及んだ。
 だが、調査期間は94年3月中旬まで約4カ月と短かった。那覇市では一部を除いて聞き取り調査を断念し申告制とするなど、全県を網羅するには十分ではなかった。
 県は95年1月、沖縄タイムスと琉球新報の紙面で県内分名簿を全面広告として紙上公開し、追加・修正を呼びかけた。
 県外の戦没者は各都道府県に依頼。米国は国防総省などを通して陸・海・空・海兵隊の4軍ごとのデータ提供を依頼した。戦前、日本の植民地だった台湾や朝鮮半島は厚生省(当時)と交渉し、国が保管していた名簿を手書きで写した。
 韓国と北朝鮮は、創氏改名で強制的に日本語名に変えられていた人々の氏名を母国語に戻す作業を韓国政府や在日本朝鮮人総連合会県本部に依頼。名簿は400人を超えたが、母国語が判明した約3分の1弱だけを刻銘した。
多数連れて来られた「慰安婦」は、名簿がないため1人も刻銘できず、無刻の板が設置された。
沖縄戦継承に強い思い
高山朝光さん(90)元県知事公室長

平和の礎のデザインコンセプトに触れ「平和の波が世界に広がってほしい」と話す高山朝光さん=10日、那覇市・沖縄タイムス社

 「平和の礎」事業には「あの地獄のような沖縄戦を風化させることなく、将来にわたって継承していく」という大田昌秀知事の強い思いがあった。原点は、大田知事が沖縄師範健児之塔で見た光景。塔に刻まれた学徒の名前を指でなぞり、涙を流して語りかける親やきょうだいの姿だ。
 礎は国籍問わず、軍人・民間人の区別なく、全戦没者の名を刻むという壮大な取り組み。一番の難題は全戦没者の名簿収集だった。
 平和行政の責任者だった私は1993年10月、県庁に各市町村の担当者を集め、建設の意義や全戦没者調査の必要性を説き、協力を求めた。調査期間は実質4カ月。短過ぎるとの反発や調査員確保への疑問の声も上がったが、平和発信の理念を理解してもらい、95年の完成を目指して県民総出で進めていった。
 県民の誰からも「敵米兵の名前を刻銘するな」との反対の声はなかった。「戦争を憎んでも、人は憎まない」との思いがあったのだと思う。
 全刻銘者の名前を読み上げる市民の取り組みも広がっている。
礎は、平和の尊さを知ってもらう大きな役割を果たしてきた。
 今、世界を見ればウクライナやガザで戦闘が続き、沖縄では米軍や自衛隊の基地強化が進む。恒久平和を祈念する記念碑として建立された礎。今こそ、沖縄から力強く世界平和を訴える場になってほしい。(談)
戦争拒絶する思想表す
石原昌家さん(84) 元刻銘検討委座長

「平和の礎は、二度と愚かで無意味な戦争を起こさないと訴えている」と話す沖縄国際大名誉教授の石原昌家さん=9日、那覇市首里大名町

 「平和の礎」は国籍問わず沖縄戦で亡くなった全ての人を対象に名前を刻銘している。兵士と住民、加害者と被害者を区別しないことで戦場を再現した。遺族に悲しみしか残らない戦争を拒絶する思想を表している。
 当初、県は援護法で受理された名簿を使う予定だったが、全戸調査をするべきだと訴えた。私は1977年から学生たちと集落ごとの戦災被害を全戸調査し、名簿は実態を示していないと分かっていたからだ。
 日本軍は撤退時に戸籍簿を燃やすよう各市町村に指示した。戦後、戸籍簿を復元する際に手数料がかかったが、貧しい人々は亡くなった家族の分は申請できなかった。戦時中に壕で生まれ亡くなった子は戸籍もない。
一家全滅の家もある。
 市町村の協力を仰いで名簿を刷新した。名前が付かず亡くなった子は「◯◯の子」と刻んだ。調査漏れは必ず生じるので追加刻銘は必要条件だった。95年はスタートだ。
 県民にとっては31年の十五年戦争からの戦没者名が刻まれている。家族単位で名前が並ぶ平和の礎はお墓のような場でもあり、亡くなった家族と「再会」できる場でもある。
 隣接する県平和祈念資料館には住民の苛烈な体験の証言が収録されており、住民がなぜ犠牲になったのかが分かる。礎と一体で切り離してはいけない。(談)
ネットで刻銘者検索可能に仮想空間に再現も
 「平和の礎」の刻銘者検索はこれまで現地でのみ可能だったが、県は19日、刻銘者をネットで検索できるシステムを公開した。
 礎を仮想空間(メタバース)で再現する取り組みも進んでおり、2025年度内に公開する予定だ。利用者はアバター(分身)を動かして公園内を散策し、戦没者の氏名も検索できる。

 多くの人が刻銘者情報にアクセスすることで追悼や研究、平和学習に活用されることを目指している。(URL:https://heiwaishiji.pref.okinawa.jp/)
 【参考文献】高山朝光・比嘉博・石原昌家「沖縄『平和の礎』はいかにして創られたか」(高文研)▽石原昌家「Basic 沖縄戦『沈黙に向き合う』」(インパクト出版会)▽県教育庁文化財課史料編集班「沖縄県史各論編第6巻沖縄戦」(県教育委員会)▽古賀徳子・吉川由紀・川満彰編「続・沖縄戦を知る事典 戦場になった町や村」(吉川弘文館)▽林博史「沖縄戦 なぜ20万人が犠牲になったのか」(集英社)
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