沖縄戦がそうだった。
上間幸仁さん(91)は、名護市の屋我地で生まれ育った。軍属だった父親は旧満州で亡くなり、母親は米軍上陸後間もなく艦砲射撃の犠牲になった。
11歳の上間さんは、3カ月の妹を抱きながら、北部の戦場をさまよった。壕に避難すると、泣きやまない妹に非情な声が飛んだ。
「敵に見つかるから殺せ」
壕を出て墓に身を隠したが、飲ませる乳がない。妹は次第に痩せ細り、息絶えた。
孤児となった上間さんは、戦後、義務教育を受けていない。戦争は少年から父母や妹だけでなく学ぶという夢さえも奪ったのだ。
「親がいたらなあ」-そう思い続けてきたという。70代も半ばを過ぎてから夜間中学の門をたたいたのは、学べなかった悔しさからでもある。
あれから80年。沖縄はきょう、節目の「慰霊の日」を迎える。
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この地で20万余の人々が亡くなった。今も正確には分かっていないが、民間人や学徒隊、防衛隊などを含めおよそ12万の県民が亡くなったといわれる。
これほど犠牲が膨らんだのはなぜか。
米軍上陸前に第9師団を引き抜かれた第32軍は、兵力不足を補うため住民を根こそぎ動員し戦力化した。
しかも住民に対しては、捕虜になることを認めなかった。米軍と接触した住民は、スパイと見なされ、日本兵に殺害された。
南部では住民が壕から追い出され、戦場をさまよった末、米軍の砲弾や銃弾を浴びて亡くなった。
沖縄戦当時、県庁で疎開業務を担当した浦崎純さんは、母の遺体にすがって乳房を含んでいる幼子を見た。
瀕死(ひんし)の重傷を負いながら死にきれず、うつろな目で助けを求める血だるまの人を見た。
「戦争は絶対だめ」。
政治家による沖縄戦の「つまみ食い」や「歪曲(わいきょく)」が問題になっているが、犠牲になった人々の苦悩に寄り添うことなしに、地上戦の真実は見えてこない。
体験者の言葉にならないつぶやきを聞き取り、生き残った人たちの体験の核心を次の世代に伝えること。 戦争否定の意思を沖縄に根付かせ、具体的な形で発信し続けること。それが今、切実に私たちに求められている。
今年は「平和の礎」が設置されて30年の節目の年でもある。
礎に刻まれた24万2567人の名前をリレー方式で読み上げる市民団体の取り組みが各地で続いている。
沖縄盲学校では生徒たちが、点字に変換された名簿を指で追いながら声にした。北海道のグループは道出身者の名を読み上げた。
本紙も22日まで13日間かけて計52ページにわたり刻銘者の名を掲載した。
名前-それは生きた証しである。
遺族にとっては、御影石に彫られた親きょうだいの名前を指でなぞることが、喪の作業になる。
礎は戦没者と今ある家族とのつながりを次の世代に伝える場にもなっている。
国籍も階級も関係なく、誰もが同列の個人として扱われている戦争モニュメントは、世界的に見ても異例だ。
礎は、異郷の地で亡くなった朝鮮半島や台湾出身者に思いをはせ、過去の植民地支配を想起する場でもある。
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世界は、かつてないほど不安定化し、国際法を無視した軍事暴力が各地で顕在化している。
イスラエルに続き米国も、イランの核施設の攻撃に踏み切った。
先制攻撃が安易に認められれば、世界は規範を失い「強者の論理」に支配されることになる。
ガザでは国際政治の谷間に落ち込んだ子どもらが、飢えに苦しみながら世界の人々に助けを求めている。
私たちにできることを、今、それぞれの場から始めよう。戦争犠牲をなくすために。