[うちな~う](98)
 20万人余の命を奪った沖縄戦から80年。住民を巻き込んだ地上戦の惨禍を二度と繰り返さぬよう体験を語り継いできた当事者は年々減少し、直接話を聞くことが難しくなってきている。
戦争を知らない世代が増える中、「物言わぬ語り部」として戦争遺跡の価値が高まっている。

1689年、地域の守り神として勢理城の丘の上に設置された「富盛の石彫大獅子」。沖縄戦では米軍に弾よけとして使われ、無数の弾痕が残る=16日、八重瀬町富盛

 県内では千カ所を超える戦争遺跡が確認されている。自治体により保存されるもの、当時の姿のままたたずむもの、米軍施設のフェンスの内側に残るものなど、状態はさまざま。長い年月が経過し、多くの戦争遺跡が風化や老朽化にさらされている。
 平和ガイドとして中高生などをガマに案内しているNPO法人沖縄鍾乳洞協会の松永光雄理事は、戦跡を体験することで「当時の状況を肌で実感し、命の尊さについて考えるきっかけになる」と話す。
 昨年、第32軍司令部壕(那覇市)が沖縄戦の戦争遺跡として初めて県の文化財に指定された。
 他に糸満市がデジタル技術を活用し、轟の壕を仮想現実(VR)映像で公開するなどの試みも始まっている。
 戦の爪痕、記憶を静かに伝える各地の戦争遺跡。沖縄戦の実相を学ぶ場、語り継ぐ場として、その重みは増している。(写真部・小宮健)

糸満市や八重瀬町、南城市のガマから掘り出したガスマスクや水筒などを並べる松永光雄さん(右)。戦争遺跡からは数多くの遺留品が見つかる=23日、八重瀬町新城
沖縄戦末期、解散命令後に追い詰められたひめゆり学徒らが犠牲となった荒崎海岸。
三線を弾いて追悼する人の姿もあった=22日、糸満市束里
戦時中、約千人の住民が避難した「シムクガマ」。川が流れ込む総延長2500メートル以上の鍾乳洞。森に囲まれた入り口には、避難民に米軍への投降を呼びかけ、命を救った男性2人をたたえる記念碑が建てられている=15日、読谷村波平
伊江島の「公益質屋」は1929年、城山麓付近に建築された村営の金融機関。沖縄戦当時、日本軍陣地へ向けた米軍の艦砲射撃により、海側の壁が破壊された=4月21日、伊江村東江上
旧日本軍が軍用機を攻撃から保護するため、北飛行場周辺に造った格納庫「掩体壕」。10基前後造られたとされるが、現在残っているのは1基のみ。内側は補強のため鉄骨が組まれている=15日、読谷村座喜味

 
「物言わぬ語り部」戦の爪痕を静かに伝える 沖縄各地の戦争遺跡...の画像はこちら >>
1689年、地域の守り神として勢理城の丘の上に設置された「富盛の石彫大獅子」。沖縄戦では米軍に弾よけとして使われ、無数の弾痕が残る=16日、八重瀬町富盛">
「物言わぬ語り部」戦の爪痕を静かに伝える 沖縄各地の戦争遺跡
糸満市や八重瀬町、南城市のガマから掘り出したガスマスクや水筒などを並べる松永光雄さん(右)。戦争遺跡からは数多くの遺留品が見つかる=23日、八重瀬町新城">
「物言わぬ語り部」戦の爪痕を静かに伝える 沖縄各地の戦争遺跡
沖縄戦末期、解散命令後に追い詰められたひめゆり学徒らが犠牲となった荒崎海岸。三線を弾いて追悼する人の姿もあった=22日、糸満市束里">
「物言わぬ語り部」戦の爪痕を静かに伝える 沖縄各地の戦争遺跡
戦時中、約千人の住民が避難した「シムクガマ」。川が流れ込む総延長2500メートル以上の鍾乳洞。森に囲まれた入り口には、避難民に米軍への投降を呼びかけ、命を救った男性2人をたたえる記念碑が建てられている=15日、読谷村波平">
「物言わぬ語り部」戦の爪痕を静かに伝える 沖縄各地の戦争遺跡
伊江島の「公益質屋」は1929年、城山麓付近に建築された村営の金融機関。沖縄戦当時、日本軍陣地へ向けた米軍の艦砲射撃により、海側の壁が破壊された=4月21日、伊江村東江上">
「物言わぬ語り部」戦の爪痕を静かに伝える 沖縄各地の戦争遺跡
旧日本軍が軍用機を攻撃から保護するため、北飛行場周辺に造った格納庫「掩体壕」。
10基前後造られたとされるが、現在残っているのは1基のみ。内側は補強のため鉄骨が組まれている=15日、読谷村座喜味">
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