アイスバーグ作戦の主要な目的は、日本侵攻に備えて沖縄を占領し、沖縄に軍事基地を建設することだった。
その目的を達成するため、米軍は上陸直後にニミッツ布告を発し、日本政府の全ての行政権を停止して軍政府を設立すると明らかにした。
勝敗の行方もはっきりしない初期の段階で、一方的に行政権の停止を宣言していたのである。
アイスバーグ作戦は、勝ち戦になることを前提とした用意周到な計画だった。 戦闘が激化すれば負傷者が増え、捕虜も増えていく。そのために軍政府は住民の食糧を準備し、野戦病院を開設し、日本側負傷者を受け入れた。
米第10軍が戦闘を担い、米海軍軍政府は占領下の軍政を担当した。
北部の敗残兵に対し掃討戦を続ける一方、米軍は基地開発計画に基づいて中南部で基地建設に着手。さらに米海軍軍政府による軍政も本格化させる。
石原昌家沖国大名誉教授は「戦前・戦闘中・戦後が同時に混在した史上稀(まれ)に見る混沌(こんとん)社会が出現した」(『戦後沖縄の社会史』)と指摘する。
「ヤマト世」から「アメリカ世」への転換が始まったのである。
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沖縄の戦後はいつ始まったのか。
この問いに対して沖縄では「収容所に入れられた日がその人にとっての戦後の始まり」だと答える人が多い。
読谷では、米軍が上陸した4月1日その日に村内の3カ所に、臨時の民間人収容所がつくられ、多数の村民が収容された。戦闘中の「戦後生活」が始まったのだ。
5月10日には石川の民間人収容地区に、戦後最初の学校といわれる石川学園(現・城前小学校)が開校した。
戦陣訓によって捕虜になることを禁じられていたはずの日本兵の投降も相次いだ。日本軍の戦闘意欲は急速に低下していた。
敗残兵にとっては、食糧を確保し命をつなぐことが何より優先された。スパイ視による住民殺害が各地で起きた。
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米陸軍省が編さんした『沖縄 日米最後の戦闘』は、沖縄戦を振り返ってこう指摘している。
「沖縄に払った代価は高かった。米軍側の損害の総合計は、日本との戦争では、どの戦役での損害よりもいちばん大きかった」
その一方で同書は「沖縄の軍事的価値は、すべての期待をしのぐものだった」とも指摘する。
戦後、冷戦が顕在化したことで、軍事的価値はいっそう高まる。
沖縄戦から80年たった今も、沖縄に基地負担を強いる基本的な構図は変わっていない。