北部の青年学校に通っていた主に15~18歳の少年たちや中部で選抜された少年ら、およそ千人を数次に分けて召集したという(『沖縄県史各論編6沖縄戦』)。
彼らが配置されたのは、第一護郷隊(隊長・村上治夫中尉)、第二護郷隊(隊長・岩波寿中尉)という新たに編成された部隊だった。
隊長の村上、岩波両中尉は陸軍中野学校を卒業したゲリラ戦・秘密戦のプロである。
護郷隊という名称は通称で、作戦上の正式名称は第一護郷隊が第三遊撃隊、第二護郷隊が第四遊撃隊となっている。
遊撃隊とは何か。
1944年9月13日、小禄飛行場に降り立った村上中尉らは、その足で第32軍司令部を訪ね牛島満司令官に着任のあいさつをした。 牛島司令官が、どういう任務で来たのかを尋ねると、こう答えたという。
「敵が上陸して軍が玉砕した場合、我々が最後までがんばって敵の後方かく乱をするとともに、大本営といつも無線連絡をとって情報提供します」(NHKスペシャル取材班『僕は少年ゲリラ兵だった』)
沖縄戦では多くの男子学徒が鉄血勤皇隊として戦場に動員されたが、護郷隊はそれとは異なる独自の目的を持った部隊だった。
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護郷隊の隊長や中隊長は中野学校出身者が占め、県出身の在郷軍人らが分隊長となって少年たちを指揮していた。
訓練は過酷で、上司から殴られるのは日常茶飯事。「敵を殺せ」と教えられ、時には「足の親指を引き金にあてて、銃口を口にくわえる」という“自決訓練”まで行われた。
第一護郷隊が名護の多野岳・名護岳に、第二護郷隊が恩納岳に配置された。
橋の爆破、米軍キャンプの急襲。
スパイと見なされ、同じ隊員から殺害されるという痛ましい事例も明らかになっている。県史によると、第一護郷隊は610人中91人、第二護郷隊は388人中69人が犠牲になった。
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「護郷隊」という言葉には「故郷を護る」という意味が込められているという。
だが、「護郷隊」という名のゲリラ部隊を結成して10代半ばの少年たちを戦場に駆り出す必要が本当にあったのか。
陸軍防衛召集規則の改正で、志願した形をとれば、14歳以上でも召集できることになったといわれるが、志願ではなく強制だったとの証言もある。
制度の運用に問題はなかったのか。
南部の激戦地だけでなく北部のゲリラ戦・秘密戦にも目を向ける必要がある。