沖縄戦で肉親を失い、行き場がなくなった子どもたちは、戦場で保護され、米軍政府が設置した孤児院に収容された。
 瓦ぶきの民家を利用したコザ孤児院で、ふさぎがちな子どもたちを世話し、励ましたのは、戦火を生き延びた女子学徒隊のメンバーだった。

 「幼児たちは栄養失調でやせ細り、おなかが膨れ、ほとんどの子は下痢で顔色も悪かった」
 「体をきれいに拭いて寝かせたのに、翌朝、子どもたちを見たら髪の毛から顔、手足と体中が便にまみれていた」
 そうやって毎朝、一人また一人と、亡くなっていったという。
 戦争孤児の問題に詳しい立教大名誉教授の浅井春夫さんは、こうした現実を「ネグレクトによる死亡」だとみる。
 施策の怠慢が背景にあるという指摘だ。
 コザ孤児院だけでなく田井等孤児院でも、子どもたちの衰弱死が多かったことが、証言で明らかになっている。
 沖縄の子どもたちは、戦場で死んでいっただけでなく、組織的戦闘が終わった後も、「必要な治療」「十分な栄養」が与えられないまま、劣悪な環境の下で死んでいった。
 田井等孤児院で親身になって子どもたちを世話し、みとったのは、「慰安婦」として連れてこられた朝鮮の女性たちだった。
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 県内各地の孤児院に収容された児童は、1945年6月時点で約千人(県生活福祉部編「戦後沖縄児童福祉史」)。
 戦争孤児の実数は、それをはるかに上回る。
 琉球政府社会福祉課の調査(54年1月末現在)では、18歳未満の戦争孤児は本島で約3千人と報告されている(浅井・川満彰編「戦争孤児たちの戦後史1」)。
 子どもの福祉に関する基本法である児童福祉法は47年12月に公布された。
 政治上行政上、日本から分離されていた沖縄で、本土法とは異なる琉球政府の児童福祉法公布は53年10月である。
 初期の孤児対策は、戦争遂行の必要性から生まれたもので、児童福祉の理念を体現した対策とは言い難い。

 本土と沖縄の違いは、ここでも顕著だ。
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 戦後の沖縄社会は、どのようにして戦争孤児を迎え入れたのだろうか。
 さまざまな証言から浮かび上がってくるのは、差別や偏見、孤独、貧困に悩まされ続けてきた姿だ。
 戦争孤児とは、国策がもたらした戦争被害そのものである。
 「俺は一体、何者か。何でこんな運命になったのか」-沖縄戦から80年たった今なお、心の傷を抱えたまま、自分探しの旅を続けている孤児がいる。
 親を失い、つらく苦しい道を歩んでも、国からは何の補償もない。
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