朝鮮半島から沖縄に連れて来られ、沖縄で戦後を生き、沖縄で亡くなった裴奉奇(ペポンギ)さん=享年77=の言葉だ。
裴さんが沖縄に渡ったのは1944年11月。
初めて見た沖縄は10・10空襲で焼け野原となった那覇の街だ。そこから那覇、座間味、渡嘉敷、阿嘉、大東島と女性たちが分けられて行った先は、日本軍の「慰安所」だった。
日本軍が慰安所を設置するようになったのは日中戦争以降だ。
駐留先で兵士による強(ごう)姦(かん)事件が多発したことから、住民の反発を避け、兵士が性病にかかることによる士気の低下を防ぐため各地に設置した。
部隊の移動に合わせて閉鎖・開設されたほか、慰安婦の募集についても軍の要請を受けた業者以外に官憲や軍人も加担した。
県内で慰安所の設置が本格化したのは、第32軍による飛行場建設が始まった頃だ。
44年5月、伊江島飛行場の起工式に臨んだ第五十飛行場大隊長は隊員たちに慰安所利用を訓示した。(『沖縄県史各論編6』)
県内では延べ140カ所以上の慰安所が設置されたという。
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裴さんは同じく朝鮮半島出身の6人と共に渡嘉敷島の慰安所で、朝から晩まで何十人もの兵士の相手をさせられた。「腰も痛い。下半身も痛い。
兵士は階級ごとに定められた料金を支払ったが、それが慰安婦の手に渡ることはほとんどなかった。空腹の慰安婦が住民から食べ物を分けてもらう姿も度々目撃されている。
軍が敗退すると慰安婦たちは戦場に放り出された。
日本語がうまくできない彼女たちは戦後の沖縄社会で埋没。裴さんの特別在留が許可されたのは戦後30年がたった1975年のことだった。
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慰安婦とされた中には県内の遊郭の女性もいた。
しかし、何人が連れて来られ、何人が犠牲になったのか。実態はいまだに明らかになっていない。「平和の礎」への刻銘もなかなか進まない状況がある。
そうした中「慰安婦は職業」とする発言が後を絶たない。2016年に自民議員が撤回に追い込まれたものの、ことし石垣市議からも同様の発言が飛び出し再び問題となっている。
軍が関与し、軍の「必要」に応じて沖縄戦下に置かれたのが慰安所だった。元慰安婦らの名誉と尊厳の回復が果たされたとは言えない。