米軍が久米島に上陸したのは、第32軍司令部が壊滅した後の1945年6月26日。
当時、久米島には海軍の電波探信隊(隊長・鹿山正兵曹長)約30人が配備されていた。
自宅で米軍に捕まり、鹿山隊に降伏勧告状を届けるよう指示された安里正次郎さんは6月27日、鹿山隊長によって殺害された。
6月29日には、北原区の区長、警防分団長ら9人が銃剣で突き殺され、家が焼き払われた。
住民に投降を勧めた仲村渠明勇さん一家3人は8月18日、鹿山隊兵士らに刺殺され、家も焼き払われた。 8月18日といえば、昭和天皇がラジオ放送で「終戦の詔書」を読み上げた3日後である。
朝鮮半島出身の谷川昇さん一家7人は8月20日、惨殺された。
鹿山隊の蛮行の犠牲者は20人。米軍と接触した者、米軍の宣伝ビラを持っていた者、投降を呼びかけた者は、軒並みスパイ容疑をかけられ、処刑の対象となった。
具志川村の警防団長を務めていた内間仁廣さんは「血走った友軍は敵に対する行動はせず(中略)、鬼畜にもまさる事のみくりかえし」ていた、と当時の日記に記している。
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日本軍による住民殺害は久米島に限らず県内各地で起きている。
各種の証言を読んでいつも気になっていたのは、なぜ、このような蛮行が許されたのかという点だ。
戦時下とはいえ、部隊が決めた一編の通達が殺害を認める法的な根拠になるとは思えない。
戦史研究家の原剛さんは、多くの殺害事例が「第一線の部隊もしくは後方の部隊などの、自己判断で実施されている」と指摘した上で、軍律会議がなかったことを問題視する。
禁止行為を「軍律」として定め、これを一般に公布し、この公布した「軍律」に違反した者を軍律会議で審判し、軍罰を科す。
第32軍司令官にはそのような権限があったにもかかわらず、軍律会議に関する記録も証言も見当たらないという(原著『沖縄戦における住民問題』)。
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戦後、鹿山隊長は週刊誌のインタビューに答え「悪いことをしたとは考えていない」と正当化した。
国家賠償法が成立する前に起こった事例なので賠償の責任はない、というのが政府の見解だ。そうだとしても国家の道義的な責任がなくなるわけではない。
久米島では、惨劇の記憶を後世に伝えようと、新たな取り組みが始まっている。
80年前、谷川さん一家が殺害された日に当たる8月20日、有志らが追悼集会を開き、併せて犠牲者を悼むレリーフの除幕式を行う予定だ。