1948年8月6日夕方、島の南海岸「大口の浜」で、停泊していた米軍の上陸用舟艇(LCT)に積まれた125トンの砲弾が荷崩れを起こし大爆発を起こした。
ちょうど本部町渡久地港からの連絡船が入った直後、浜は住民らでごった返していた。爆発により乗客や出迎えの人など107人が犠牲に。負傷者も約70人に上った。
当時10歳だった島袋清徳さんは父親と一緒に乗船していた。一足先に下船し、浜近くの民家で水を飲もうとした時、背後で「バーン」というごう音と人のわめき声を聞いた。
浜には焼け焦げた遺体や肉片、船のかけらが散乱。父親は無事だったが、知人の何人もが亡くなった。
日本軍の飛行場が建設された島は、沖縄戦が始まるとすぐ米軍に制圧された。米軍は生き残った住民を慶良間諸島に強制移住させ、ようやく住民が島に戻ってこられたのは47年3月のことだ。
凄(せい)惨(さん)な事件はそのわずか1年半後に起きた。
終戦後、島には空爆用の弾薬が大量に残された。
集積所で度々火災が発生したため、米軍は弾薬を海で処理する作業を開始。その矢先に起きた爆発だった。
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戦後、県内では各地で不発弾などの爆発事故が相次いでいた。そうした中でも多大な犠牲を出したLCT事件。
にもかかわらず、事件は長らく注目されなかった。発生から60年がたった2008年、県公文書館が入手した米軍資料を公開したことで状況が大きく変わる。
事故直後の写真が見つかったほか、現場の見取り図や関係者の証言でようやく事件の全体像がおぼろげながら見えてきた。
21年には伊江村民有志らが米軍報告書をまとめた記録集を発行。それによると爆発は、積まれた砲弾の上を米兵が駆け上がったことで衝撃が加わり起きたという。事件時に現場監督者が不在だったなど米軍のずさんな管理体制も指摘されている。
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一方、被害の全容はいまだに分かっていない。
犠牲者を悼む村の被爆慰霊碑に刻まれるのは計80人。今回、新たに本部町の外間モウシさん(19)が刻まれた。沖縄戦で戦争孤児となった一人だ。
伊江島の戦争は「沖縄戦の縮図」と言われる。米軍占領下で起きたLCT事件もまた「戦後沖縄の縮図」と言える。
沖縄戦から続く不条理だ。大きな爆発事件というだけでは片付けられない。
事件を風化させてはならない。語り継ぐ責務は私たちにある。