〈八月や六日九日十五日〉(はちがつやむいかここのかじゅうごにち)。
 広島、長崎の原爆忌と終戦の日の日付を盛り込んだこの句は、さまざまな人によって読み継がれてきた。

 8月15日は一般に「終戦の日」と言われているが、その言い方には注釈が必要だ。
 日ソ戦争は満州・朝鮮半島・南樺太・千島列島で1945年8月8日から9月上旬まで続き、8月15日で終わったわけではない。
 日本政府がポツダム宣言を受諾することを決め、連合国に回答したのは8月14日。
 昭和天皇が14日深夜に録音した終戦詔書は、翌15日正午、ラジオで全国に放送された。
 国民はこの時初めて、天皇自身の声で、連合国への降伏=敗戦を知らされたのである。
 8月16日付の「河北新報」は2面に「嗚呼(ああ)・御許し下さいまし」「大和民族断じて尽きず」「新なる忠誠誓い奉らん」との見出しを掲げ、当時の国民感情を伝えている(五百旗頭真著『戦争・占領・講和』)。
 東京湾の戦艦ミズーリ号で降伏文書の調印式が行われたのは9月2日。この日を国際法上の終戦と位置付ける専門家は多い。
 敗残兵掃討と並行して占領下の米軍政が進んでいた沖縄ではどうだったか。
 「8・15」を巡る本土のような集団的メディア体験はなかった。NHK沖縄放送局は放送不能に陥り、その上、米軍が情報を管理していたからだ。
■    ■
 8月15日、米海軍軍政府によって石川に住民代表が集められた。
沖縄諮詢会の設立について協議するためだ。集まった住民代表は、その場でムーレー軍政府副長官から日本の降伏を知らされた。
 だが、県民にとっては今さら特別の衝撃と興奮をよび起こすものではなかったという(嘉陽安春著『沖縄民政府』)。
 空襲や原爆によって被害を受け、米軍占領前に終戦を迎えた本土と、地上戦で破壊し尽くされ米軍占領下で終戦を迎えた沖縄。
 共通の歴史体験に基づく「集合的記憶」のないところに、共通のアイデンティティーは育ちにくい。
 45年12月には帝国議会で「改正衆議院議員選挙法」が公布され、付則で沖縄県民の選挙権が停止された。新憲法は県民代表不在の国会で成立した。
■    ■
 「8月15日に天皇の聖断によって終戦を迎えた」との語りは、こてんぱんにやられ降伏した、という事実をオブラートに包む。
 9月2日という降伏調印式の日付は急速に忘れられた。敗戦という言葉さえ終戦に置き換えられ、あまり使われなくなっている。
 中国と戦争を続けてきたという事実さえ若い世代では忘れられつつある。
 加害者は忘却し、被害者は記憶を継承する。
その結果、両者の歴史認識の溝は深まっていく。
 急速に世界の軍事化が進む今ほど、歴史対話が求められる時はない。
編集部おすすめ