あれから、きょうで80年になる。
連合国軍最高司令官のマッカーサーは、調印式で、戦争が終わったことを全世界に向けて宣言した。
太平洋戦争が終結し、連合国(実質的に米国)による日本占領が始まる節目の日付であるが、終戦の日の「8・15」に比べ国民の関心は薄れるばかりだ。
戦争の何が記憶され、何が忘却されるのか。
沖縄では「8・15」や「9・2」を区切りにして戦前と戦後を分けることはできない。
ミズーリ号で降伏調印式が行われた9月2日以降も、沖縄では戦争による犠牲者が後を絶たなかった。
これは一体、どういうことなのか。
宜野座地区(現在の宜野座・惣慶・福山)や古知屋地区(現在の宜野座村松田)の民間収容所には、戦争末期、中南部の避難民が数万人いたといわれる。
宜野座収容所に設置されていた米軍野戦病院には、戦闘で重傷を負った避難民がひっきりなしに運び込まれてきた。手当てのかいもなく死んでいく人が絶えなかった。
野戦病院そばの遺体置き場に安置した後、一つの穴に何体も埋めたという。
■ ■
手元に1冊の本がある。
宜野座村誌編集委員会が編集した「宜野座米軍野戦病院集団埋葬地収骨報告書」。
その中に古知屋共同墓地の死亡者名簿が載っている。氏名、年齢、本籍地、死亡月日が記されており、これによって9、10月に死亡者が急増していることが分かる。
戦争で親を亡くした1、2歳の幼児や4、5歳の子どもも多く、栄養失調で「運ばれて来てから2、3日したら、ほとんどが死んでいった」という(『読谷村史第5巻資料編4 戦時記録下巻』)。
集団埋葬地が宜野座村の体育館建設用地になったことから遺骨の収集作業を行い、161柱を収骨した。沖縄戦が終わって38年がたった83年のことだ。
故郷や親の元に帰ることもなく亡くなっていった人々の無念を思わずにはいられない。
■ ■
昭和天皇は戦後、沖縄戦の敗因について赤裸々に語っている。
「陸軍が決戦を延ばしているのに、海軍では捨鉢の決戦に出動し、作戦不一致、全く馬鹿☆(「くの字点」平仮名の繰り返し符号)しい戦闘であった」(『昭和天皇独白録』)。
これが最後の決戦で、これに敗れたら、無条件降伏もやむを得ないと思った、とも語っている。
「全く馬鹿☆(「くの字点」平仮名の繰り返し符号)しい戦闘」のために、沖縄県民がどれほど苦しみ、犠牲になったことか。
それは作戦の失敗が招いたものなのだ。
『独白録』は、そのことには触れていない。