南西諸島の日本軍の降伏と武装解除を内外に向かって明らかにしたこの調印式は、戦争の勝者は誰かを可視化し、統治者の交代を強く印象付ける儀式だった。
その場所は嘉手納基地の中にあり、普段は自由に出入りすることができない。
9月7日は、記憶すべき歴史的な日付ではあるが、9月7日をもって「沖縄の戦後の始まり」と言うのには無理がある。
沖縄の戦後はいつ始まったのか。
住民の視点に立って言えば、「6・23」でもなく「8・15」でもなく、収容所に収容された日から「それぞれの戦後」が始まったと言う方が適切だ。
民間人を対象にした収容所が県内12カ所に設けられ、7月末時点で約32万人が米軍管理下に置かれていた。
この時期、沖縄は歴史上類を見ない混沌とした社会状況にあった。普通なら時系列で進む「戦場」「占領」「復興」という三つの局面が混在し、同時並行して進んでいたのである。
収容所の中から戦後の教育や行政が動き始める一方、久米島では日本軍による住民殺害が相次いだ。鹿山隊が投降、収容されたのは9月7日である。
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通貨は流通せず、食糧や衣類は米軍から無償で支給された。
住民は代わりに、物資運搬や遺体処理、洗濯など、さまざまな「軍作業」に駆り出された。
米軍の物資集積所から物を盗むことを「戦果」と言う。「戦果アギヤー」が各地に横行した。
住民は何度も収容所を転々とさせられた。基地建設計画が進んでいたのだ。
米軍は、掃討戦を続ける一方、かつて日本軍が住民を動員して建設した飛行場を次々に整備し、新たな飛行場建設にも着手した。
普天間飛行場は、そうやって住民の生活の場を一方的に取り上げ、旧宜野湾村の14字にまたがる地域に建設したものだ。
米軍は46年10月末から旧居住地への帰還を認めたが、元の集落が基地にのみ込まれ、帰る場を失った人も少なくない。
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日本による軍事要塞(ようさい)化の後に、米軍がこれを引き継ぐ形で、この島を要塞化した。
そして今度は、日米合作による軍事要塞化の波が島々に押し寄せている。
戦争の動きに対抗する平和の思想は、軍備増強によって対抗しようという抑止の思想に押されがちだ。
だが、ひとたび戦争が起きれば住民の犠牲は避けられない。沖縄戦を深く広く学び直す重要性は、高まる一方だ。
社説企画「沖縄戦80年」は今回で終わります。