安全保障を巡る日本の風景は、この10年の間に文字通り一変してしまった。
軍事要塞(ようさい)化の動きはとりわけ、県内離島を含む南西諸島で顕著だ。
「憲法上、集団的自衛権の行使は認められない」というのが、それまでの政府の公式見解だった。
安倍政権は、従来の憲法解釈を守ろうとした内閣法制局長官の首をすげ替え、政府の憲法解釈を閣議決定で覆し、法曹関係者や一般市民の圧倒的な反対の声を押し切って法制化した。
2022年12月には、岸田政権下で安保関連3文書(国家安全保障戦略、国家防衛戦略、防衛力整備計画)が閣議決定で改定された。
「専守防衛に徹し、他国に脅威を与えるような軍事大国とならない」と説明する一方、防衛費の大幅な増額や反撃能力(敵基地攻撃能力)の保有など「防衛力の抜本的強化」が進む。
定型化した公式表現と、現実に進行する事態との隔たりが大きく、そのことが疑念や不安を抱かせる結果を招いているのである。
集団的自衛権は、どういうときに行使が認められるのか。「台湾有事」のどういう場合に発動されるのか。それが沖縄とどういう形で関わってくるのか。
「手の内は明かせない」との理由で説明責任を放棄したままでは、不安は高まるばかりである。
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安保法制の議論の際、安倍晋三首相が国会で「ホルムズ海峡が機雷で封鎖されればそれは存立危機事態だ」と発言したことがある。与党公明党の山口那津男代表は「そんなことが存立危機事態であるはずがない」とコメントした(朝日新書『検証 安保法制10年目の真相』)。
存立危機事態とは集団的自衛権の行使が容認される事態のことだ。
「わが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」場合である。
極端に抽象的な条文を読んだだけでは、どのような事態が該当するかを判断することはできない。
米軍からの有形無形の圧力によって行使容認に踏み切るのではないかと懸念する声もある。
運用次第では「法治」ではなく「人治」に陥りかねない危うさを秘めている。
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安保法制が成立して以降、あれほど盛り上がった市民運動が急速にしぼみ、憲法論議も至って低調だ。
国会は果たすべきことを果たし得ているか。
日本の政治は今、衆参両院とも少数与党という不安定な状態にある。
「連立政治の時代」に求められるのは、与野党の垣根を超えた熟議だ。
安保法制を巡るさまざまな問題も例外ではあり得ない。
説明責任を果たさないままミサイルだけを配置すれば、不安が高まるのは当然である。