本土で女性の参政権が実現した46年4月10日より約7カ月早い。
南西諸島の日本軍が降伏文書に署名し沖縄戦が公式に終結した45年9月7日から間もない時期だった。沖縄の人々はまだ米軍の収容所の中にいた。
軍政府が発表した「地方行政緊急措置要綱」には「年齢二十五歳以上の住民は選挙権および被選挙権を有す」という条文が設けられた。
この決定の背景にはさまざまな要因があったようだ。米軍政府と住民の意思疎通を図る政治・行政機関「沖縄諮詢(しじゅん)会」の過半数は「時期尚早」と反対したが民主化の一環として米軍中佐が命令した、戦争で多くの男性が死亡し女性と子どもだけの異常な人口構成だった-。
終戦直後、男性たちがいない中、女性たちは一家の大黒柱となった。米兵による暴行事件なども頻発し、生きるためにさまざまな問題と闘っていた。そんな中で、参政権は降って湧いたようなものだったが、手にした権利の意味は小さくなかった。
「県史各論編8女性史」によると、沖縄婦人連合会の会長を務めた中村信さんは当時のことを「生きていれば婦人の地位向上のために働ける時がくるかもしれない、私は希望がわく思いがした」と回想している。
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9月20日に沖縄本島12カ所の収容所で市会議員選挙が行われ、女性2人が立候補したが落選したという。
実際に女性議員が誕生したのは48年の市町村議会議員選挙である。
男たちが戦地から復員すると女性たちは落選していった。「政治は男性が行うもの」といった女性の政治参加を阻む固定観念は今に通じるものがある。
しかし58年に宮里初子さんが立法院議員選挙で、76年には上江洲トシさんが県議選で初当選した。2000年には東門美津子さんが衆院選で当選し初の国会議員に、06年には沖縄市長選に当選して初の女性首長となった。
女性たちは政治の場で次々と道を切り開き、物価や子どもの教育、女性の人権問題を訴えた。
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とはいえ、女性の政治参加はまだ道半ばである。内閣府の調べ(25年6月時点)では、県議に占める女性の割合は16・7%で全国平均を上回るが、市議は15・9%、町村議は12・6%で平均を下回る。7町村で女性議員はゼロである。女性知事も誕生していない。
沖縄には米軍による事件事故や子どもの貧困の問題が依然として残る。