[悲しや沖縄 戦争と心の傷]金城優さん(85)=八重瀬町
 八重瀬町の金城優(まさる)さん(85)の父は、日本兵として沖縄戦に従軍し、摩文仁村大度(現糸満市)で捕虜になった。戦後、復員した父は気に入らないことがあると祖母や母、金城さんに暴力を振るった。
今夏、戦争心的外傷後ストレス障害(PTSD)を考える講演会に足を運び、戦争で負った心の傷が暴力となって家族に向かうことを知った。「今考えれば父親はPTSDだった。心の中で葛藤し、ずっと苦しんでいたのかもしれない」。憎くて憎くてたまらなかった父の胸中を、戦後80年を経た今、そうおもんぱかる。(社会部・當銘悠)
 父は東風平村小城(現八重瀬町)出身で、沖縄戦時は「独立高射砲第27大隊第2中隊」に所属した。
 同町安里に立つ同大隊の碑によると、大隊は総勢574人で編成。第2中隊は天久台地(現那覇市)などに配備された後、宮城(現南風原町)や与座・仲座(現八重瀬町)付近を転々とし、米軍との戦闘で多くの隊員が命を失った。8割に当たる464人が戦死した。
 戦火を生き延びた父は1946~47年ごろに帰郷したが、家族に手を上げるようになった。特に、母親である金城さんの祖母に対する暴力は壮絶で、気に食わないことがあると、木の棒や電線の束でたたきつけた。自室のふすまを閉め切り、祖母や母が近寄ると「敵だ」と言って殴りかかろうとした。
 農業をしていた父は、手伝いをする小学生の金城さんの首を突然つかんで田んぼの水に頭を突っ込んだり、たたいたりすることもあった。

 一家は暴力に耐えかねて母のいとこが住む隣の集落に逃げ、馬小屋で生活したこともある。金城さんが20歳ごろになると、昼から酒を飲んで荒れる父と取っ組み合いのけんかをした。「こんなおやじ、いない方がいい」。ずっと父が憎かった。
 父は、錯乱状態に陥っていたのか、家の2階から飛び降りたこともある。精神科病院に通い薬を服用していたが、85年、自宅で自ら命を絶った。享年65。仕事中に父の死を知った金城さんは「正直ほっとした」。これで家族はおびえずに生活できると思った。
 幼かった金城さんに戦前の父の記憶はない。でも家族はみんな「戦前のおやじは頭が良くて優しかった」と話していた。
 何が父親を変えたのか-。

 沖縄戦について学び、刑務官を退職後は平和ガイドや地域ガイドとして10年以上活動を続ける。戦跡や史跡を回り、戦争で多くの住民や日本兵が亡くなったことなど歴史を伝える中で、父にも思いを巡らせてきた。
 米軍の圧倒的物量による攻撃や極限状態での日本兵による蛮行。「戦後も戦争状態だったんだろう」。戦争についてほぼ語らなかった父だが、壮絶な戦場を経験したことは想像できる。
 長年、周囲に明かさずにいた父のことを取材などで話すことで「『苦労したのは自分たちだけじゃなかった』と、少しでも慰められる人がいたらいい」。そう願っている。
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何が父親を変えたのか 沖縄戦に従軍、優しい父が一変 家族を敵と呼んで暴力 「今思えばPTSD、ずっと苦しんでいたのかも」
沖縄戦について説明する金城優さん。刑務官を退職後、平和ガイドとして活動している=2024年9月、八重瀬岳周辺(金城さん提供)
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