空はすっきりと晴れ上がっていた。早朝、那覇上空に、キラキラ光る航空機の大編隊が現れ市民の頭上に爆弾の雨を降らせた。

 金属性の爆音をとどろかせる戦闘機からの機銃掃射の中を逃げ惑う住民たち。焼夷(しょうい)弾で燃え広がる市街地。奄美群島以南の南西諸島が無差別に爆撃された「10・10空襲」だった。
 米軍空母から発進した艦載機は延べ1396機で、午前6時40分から午後3時45分まで、5次にわたって攻撃し541トンもの爆弾を投下した。飛行場や港湾、船舶、軍事施設が集中砲火を浴び、日本軍は砲弾約3万発、約68万発に上る機関銃弾と小銃弾などを失った。
 民間地区も標的となり、火災を引き起こす狙いで開発された焼夷弾が大量に投下された。旧防衛庁資料などによると、この日の空襲で県内で報告されているだけで死者668人。このうち民間の犠牲者は那覇の255人を含め330人に上った。その後の読谷村史編集室の調査で、久米島沖で八重山から戻る徴用船が撃沈されて約600人が亡くなったことが判明している。
 日本軍幹部は前日の夜、宴会に興じていた。当日、各地の監視哨から米軍機来襲の打電があったが軍上層部が取り合わず、空襲警報発令が遅れた。圧倒的な戦力で機先を制された日本軍は、ほとんど迎撃ができないまま、旧那覇市の9割が焼失した。

 沖縄戦の始まりとされる10・10空襲から、きょうで81年。
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 一般市民の殺りくは、決して許されない。10・10空襲を巡って、1944年12月、日本政府は那覇への無差別爆撃は国際法違反として米国政府に抗議したが米国は黙殺。中国の重慶(戦時中の首都)で、同様の空襲を行っていた日本はそれ以上、追及しなかった。
 10・10空襲で米軍は焼夷弾を実験的に使用。翌年の東京、名古屋、大阪、横浜など本土の都市への無差別攻撃の始まりでもあった。
 沖縄では米軍上陸が必至となり、北部への疎開を強いられることになる。半年後、米軍は沖縄に上陸して地上戦が始まった。
 戦後80年の節目に全国で空襲によって被害を受けた民間人の救済を求める運動が繰り広げられてきた。臨時国会への法案提出を目指す。被害者の高齢化が進み、残された時間は少ない。政治は一刻も早く責任を果たさなければならない。

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 「那覇の街が瓦礫(がれき)となり、戦前のゆかしい街並みが一瞬のうちに消えた。市民にとっては苦い思い出の日であり、忘れることはできない。しかしまた、この日は那覇再建の日にしてもおかしくない」。市制50年を前に当時の平良良松那覇市長は、こう語り「那覇大綱挽」が復活した。廃虚から立ち上がり復興を遂げた歴史を忘れぬよう71年から10・10空襲の日に開催されるようになった。ことしの大綱挽は12日に予定されている。
 10・10空襲の記憶を引き継ぎ、平和希求の思い新たにする日としたい。
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