1994年6月就任。社会党出身の首相は当時47年ぶり。戦後半世紀にわたり対立関係にあった自民、社会の連立政権の誕生は、その後の政界再編に大きな影響を与えた。
在任時、県内で米兵による少女暴行事件が発生した。県民の怒りは、米軍用地強制使用手続きを巡る大田昌秀知事の代理署名拒否へとつながった。
超党派による抗議の県民大会も開かれ、基地の整理縮小や日米地位協定改定を求める声は日米政府を揺るがした。
そうした中、大田知事が「沖縄の問題を遠慮なく話し合える初めての首相だった」と述べるように、村山氏は国政と沖縄の板挟みに遭いながらもどうにか基地負担を軽減しようという思いを抱き続けていた。
95年末には政府と県の基地問題協議会を発足。基地の整理・統合・縮小に向けた議論が始まった。協議は米軍普天間飛行場の返還などが盛り込まれた翌96年のSACO最終報告へとつながった。
一方、代理署名訴訟では大田知事が敗訴。連立政権下では後に地主の意向にかかわらず国が土地を強制使用できる法改正の流れもつくられ、県内では革新陣営に失望感が広がった。
首相時代を振り返り、最もつらかったのは「沖縄基地訴訟と破防法の決断だった」と漏らしたという。
ただ、沖縄の基地問題が大きく動き始めた背景に村山首相の存在があったことは間違いない。
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村山政権は、55年体制下で長年対立してきた自民が社会党委員長を担ぐという衝撃的な展開で生まれた。
その政権下で社会党は、日米安全保障体制の堅持や自衛隊合憲など基本政策を転換した。
手のひら返しとも言える路線変更はそれまでの支持者の反発を買い、党は以降、急速にしぼんでいくことになる。
一方で、村山首相が強くこだわったのは戦後処理の課題だった。
戦後50年に当たる95年に発出した「村山談話」は、過去の植民地支配と侵略を認め、「痛切な反省」と「心からのおわびの気持ち」を表明した。
談話は、その後の60年小泉談話、70年安倍談話、戦後80年の節目に出された石破茂首相の「所感」へも連なっている。
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大分県の漁師の家に生まれ、大分県職労書記から市議、県議を経て1972年衆院選で初当選した。
「自社さ」連立政権は「リベラル・ハト派」とも言われ、丁寧な政策協議を通じた政権運営が特徴でもあった。
引退後も超党派の代表団を率いて北朝鮮を訪問、中国との関係改善にも取り組んだ。過去の過ちに向き合う姿勢は近隣国からも評価されている。
長く白い眉毛がトレードマーク。飾らない人柄で知られ、右からも左からも愛された政治家だった。

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