[沖縄で見る 映画「宝島」](8) 山里孫存
 遅ればせながら、映画「宝島」を観た。「なんくるないさぁ」というウチナーグチを全国区にした妻夫木にぃにぃが、燃えるコザの中心で「なんくるならんどー」と叫ぶ…。
そういう映画だった。膨大な数の名前が流れていくエンドロールを見ながら、とても複雑な感情が僕の中で渦巻いていた。
 僕にとって、「宝島」で描かれるオキナワに「違和感」があったことは事実だ。那覇の泊で育った僕と、スクリーンの中のコザで生きる主人公グスクやヒロイン・ヤマコたちとの間には、言葉遣いや微妙な感覚の違いがあった。僕は「○○やさ!」と、ほとんど口にした事がないのだが、「宝島」の中の登場人物たちは「やさ!」を連発していて、その度に「ん?」っとなったりした。でもね、そんな違和感なんて「重箱の隅やさ!」
 僕の中に沸いてくる複雑な感情の大半を占めていたのは「感謝」の気持ちだった。沖縄の映像業界で作品を作ってきた僕にとっての「宝島」は、アーカイブ映像で何度も何度も繰り返し見てきたモノクロのオキナワ史が、総天然色で、しかも火傷しそうな熱量で迫ってくる圧巻の映像体験だった。
 伝説の歌「沖縄を返せ」の大合唱、蛇行する復帰デモ行進の波、宮森小ジェット機墜落事故の生々しい現場、群衆の怒りが爆発するコザ暴動…。
 どのシーンもこみ上げてくるものがあって『ふとぅふとぅ』した(日本語の『たぎる』とは少し違うのだが…)。そこは、「沖縄を返せ」で歌われている、まさに「民族の怒りに燃ゆる島」だった。
 オキナワの激動の20年間を凝縮した191分。「長い」という声も耳にしていたが、僕は逆に「3時間では全然足りない」と感じた。
あの時代に押し寄せていたさまざまな不条理をあれだけ詰め込んでおいて、3時間で足りるわけがないのだ。とはいえ、あの規模の予算をかけて、あれだけの熱量で復帰前のオキナワを映像に焼き付けた大友監督には、ほんとうに「感謝」したいと思ったのだ。
 しかし一方で、何とも言えない「モヤモヤ」が自分の中から消えなかった。その「モヤモヤ」の正体は多分、僕ら沖縄の制作者が創るべき映画ではなかったのか? という「悔しさ」のような感情なんだと思う。それはもう理屈ではなく、「民族」の問題なのかもしれない。
 コザ暴動直後の嘉手納基地内で、主人公グスクがこう言う「こんなことが続くわけがない。俺は人間を信じる」と。55年後を知っている僕は、胸が締め付けられた。グスク、まだ続いているんだよ…。
 沖縄では大ヒットしている「宝島」なのだが、内地では苦戦しているらしい。大友監督や妻夫木さんはじめ関わった日本のトップクリエイターたちは、沖縄に寄り添い、沖縄を伝えることの難しさを、そして何より、日本に「届かない」もどかしさを痛感しているに違いない。「コレが伝わらないのか?」と…。

 でも諦めないでほしい。僕ら沖縄の制作者は「届かない」もどかしさを何十年も味わい、それでも諦めずに沖縄から発信し続けている。諦めたら、そこで試合終了だから…。もっと沖縄を描きましょう。届くまで何度でも。グスクのように、まだ人間を信じていたいから…。(GODOM沖縄 プロデューサー)=おわり
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