戦後80年の節目のことしは、復帰後の県内政治で存在感を示した人々が相次いで亡くなった。
 共通するのは保守・革新の立場を超えて基地問題の解決を目指し、基地経済からの脱却と自立的発展へ奔走した姿だ。

 宮城篤実さん(89)は5期にわたって嘉手納町長を務めた。
 1996年には嘉手納飛行場に関する三市町連絡協議会(三連協)を立ち上げ、基地周辺の自治体が協調して日本政府や米軍に対抗する枠組みを作った。
 一方で、町面積の8割を米軍基地が占める嘉手納の発展へ国の補助事業をしたたかに利用する一面もあった。沖縄米軍基地所在市町村活性化事業を活用しロータリー地区などの再開発事業を手がけた。
 保守政治家を自任し、相手が政府であっても、言うべきときは臆せず言う姿勢を貫いた。
 大田昌秀県政で副知事を務めた吉元政矩さん(88)は、米軍基地返還後の跡地利用を見据えた「国際都市形成構想」の策定を主導した。
 県と国のパイプ役を担い、米軍基地の整理縮小交渉で手腕を振るった。日米間で基地問題を話し合う沖縄に関する特別行動委員会(SACO)の最終報告につなげた。
 くしくもことしは、社会党出身で自社さ連立政権を率いた村山富市元首相(101)も亡くなった。吉元氏とは同じ自治労出身。当時、沖縄の基地問題が大きく動き始めた背景には、村山首相の存在があった。
■    ■
 沖縄戦体験者の訃報も相次いだ。

 梯(でい)梧(ご)同窓会会長の稲福マサさん(97)は戦時中、第62師団野戦病院に配属され、負傷兵の看護に当たった。
 戦後は語り部として県内外の団体や学校の子どもたちに講演したほか、梯梧学徒隊の体験記の発刊にも力を注いだ。
 歴史教科書問題の解決に取り組んだ玉寄哲永さん(91)も死去した。10歳で沖縄戦を体験。復帰後は県子ども会育成連絡協議会会長を34年にわたり務めた。
 沖縄戦の「集団自決」を巡り、歴史教科書への「軍強制」の記述復活を求める「9・29県民大会決議を実現させる会」を結成し、要請行動に奔走した。
 語り部と教科書問題。活動する場所は違っても2氏に通底するのは史実をゆがめ、先の大戦を美化しようとする政治への危機感だ。
■    ■
 沖縄で、本土で。戦後荒廃から立ち上がり、平和な社会への歩みをつないできた人々。その死去により、過去の教訓が消し去られてしまうことがあってはならない。
 政府の防衛力強化政策で、県内では米軍基地の負担軽減が進まぬまま、自衛隊の配備が強化されている。
そうした中で、かつて来た道への回帰を懸念する声も高まっている。
 再び沖縄を戦場にしないためには何が求められるのか。今こそ先人の後に続き、それぞれの場所で考え、実践する時だ。
編集部おすすめ