1996年4月12日、橋本龍太郎首相は、モンデール駐日米大使と共に共同記者会見に臨んだ。
 「普天間飛行場を、5~7年以内に全面返還することに日米が合意した」
 忘れもしない。
テレビの前にくぎ付けになったあの会見が、全ての始まりだった。あれから、きょうで30年になる。
 地元の宜野湾市や市議会が返還時期を明示するよう求めても、政府はそれすら示すことができない。  
 「負担軽減」と「危険性除去」という本来の返還目的が、中身の伴わないお題目になってしまった。
 つまずきの石は県内移設を前提にしたことである。 既存の基地に代替施設を建設するのではなく、大浦湾の豊かな海を埋め立て「新たな基地」を建設するというのだから、それが整理縮小や負担軽減の理念に反するのは明らかだ。
 大浦湾に広がる軟弱地盤の改良は、難工事である上に天候の関係もあって、思い通りに進んでいない。
 米国防総省は、辺野古の代替施設では能力不足のため、長い滑走路が別途選定されるまで普天間は返還されないとの見解を明らかにした。軍事上の理由から普天間の継続使用を主張する軍内部の声が目立つようになった。
 「世界で最も危険」と言われながら、合意から30年たっても返還のめどが立たず、常駐するオスプレイや外来機が騒音をまき散らし上空を飛び交っている現状は、異常というしかない。
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 普天間返還を巡る沖縄からの異議申し立ては、沖縄の過重負担と犠牲を前提にした日米安保体制のいびつさを広く世界に知らしめる契機となった。
 女性の人権問題が可視化され、女性団体の取り組みが運動全体を引っ張っていく構図ができたのは、この時からである。

 冷戦終結後、基地問題が安保問題という枠を超えて人権や環境問題として語られるようになった。
 その一方、この時期に急速に進んだのは、冷戦後の日米安保を再定義し、安保条約が掲げる「極東条項」に代わって安保協力の対象を世界に拡大したことだ。
 一連の動きを通して日本の役割は急速に拡大し続けてきた。普天間飛行場の返還合意は、有事対応を含め、日米の新たな協力関係を打ち立てるためのカードとして利用されたのである。
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 復帰を巡る日米交渉は、核兵器の扱いや基地の自由使用などが主要な議題となり、基地の大幅な縮小という県民要求に応えるものではなかった。
 85年に沖縄県知事として初めて訪米し、ワインバーガー国防長官らに普天間飛行場の移設を要望したのは保守の西銘順治氏である。
 沖縄において普天間返還は保革を超えた共通の課題だった。今もそうだ。
 「負担軽減」と「危険性除去」をお題目に終わらせてはならない。普天間について「世界で最も危険な飛行場」という認識があるのなら、何よりもまず危険性除去を急ぐべきだ。
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