明治維新の混乱で“大阪の経済の灯”が消えたとき、その明かりを再びともした男がいた──五代友厚だ。没後140年を迎えた今年、10月5日に大阪・北浜の大阪取引所で特別イベントが開かれ、直木賞作家の門井慶喜さんが五代の生涯をたどり、近代大阪の礎を築いたその精神を読み解いた。
▼なぜ造幣局は大阪にあるのか
1836(天保7)年、薩摩藩士の家に生まれた五代友厚は、子どもの頃から才覚を発揮し、長崎海軍伝習所の伝習生として派遣され、西洋式の造船や航海術を学んだ。「当時の海軍教育は、今でいえばAI技術のような、きらびやかさがある最先端のエンジニアリング。全国から賢い人たちが集まっていた」と門井さんは語る。その後、薩摩藩の英国派遣留学生団の副使として渡欧。薩摩藩が1867(慶応3)年のパリ万博にパビリオンを出展できるよう手配した。
「アメリカ館、イタリア館、日本館があって、その横に鹿児島館があるようなもの。この発想がすごいですよね」と笑う。幕府の反対を押し切った挑戦は、薩摩藩を国際社会に強く印象づけた。ちなみにこのパリ万博は、日本(江戸政府)が初参加した万博でもある。
明治維新後、五代は新政府の官職に就き、大阪造幣寮(現・造幣局)の設立に尽力する。当時の日本には硬貨を製造する近代的技術がなかったため、わずか2年で閉鎖された香港造幣局の機械を購入し、イギリス人技術者ごと大阪に招いた。
「造幣局が、なぜ東京ではなく大阪に設置されたのか。実は、明治初期は政情が不安定で、政府内で『新しい首都は大阪にしよう』と議論していた時期がありました。最終的には前島密(近代郵便の父)が『首都は東京にすべき』と主張して東京になりましたが、その短い大阪首都構想の時期に、造幣局の企画が通ったんだと思っています」と持論を展開した。
▼民間人として大阪経済を立て直す
五代は早々に官職を辞し、大阪に残る決断をする。「いくらでも威張れた立場を捨て、民間に降りたのが五代さんのすごさ」と門井さんは感嘆する。
1875(明治8)年、五代は新政府の大久保利通と木戸孝允、板垣退助らの会談を仲介し、「大阪会議」を実現させた。その舞台となったのは、現在も大阪取引所近くに残る北浜の高級料亭・加賀伊(現・花外楼)だ。料亭前に広がる川沿いの景色は今も当時と大きく変わらず、川沿いを西に進んだ中之島には五代邸宅跡に建てられた日本銀行大阪支店旧館(辰野金吾設計)がある。大阪会議時代には、そのさらに西南にある現在の大阪科学技術館の地に居を構えていた。「おそらく五代さんは北浜まで歩いてこの会議に向かった。川沿いを歩くだけで、当時の息吹を感じられる」。
東の渋沢栄一、西の五代友厚。
大阪市内には現在、五代友厚像が5体ある。「おそらく没後の追悼だけでなく、戦後にかけても建立されている。一都市に同一人物の銅像がこれほど多いのは珍しい。五代さんも素晴らしいし、彼を忘れまいとした大阪市民・大阪商人も素晴らしい」と感慨を込めて語った。
▼世界最先端だった堂島米市場
門井さんの小説『天下の値段 享保のデリバティブ』で描かれるのは、江戸時代の堂島米市場。米が経済の中心だった江戸時代、「大阪は世界的にも先進的な経済システムを持っていた」と門井さんは説明する。
初めて大阪取引所を訪れた桂天吾さんは、展示された同所の設立趣意書に驚いたという。「(鰻谷の)住友吉左衛門や鴻池善右衛門は落語でもおなじみのお金持ち。その二人より前に、五代友厚の名前が記されていて、『こりゃすごいな!』と思いました」。実際に五代のゆかりの地を歩き、「大阪を首都にするぐらいの勢いだったんだ」と実感したと語った。
締めくくりに、門井さんはこう振り返った。「江戸が自然に首都になったわけではないように、大阪も自然と繁栄したわけではないとあらためて思った。五代友厚の存在がなければ、今のような大阪はなかったでしょう。人口10万人ぐらいの都市だったかもしれません」。
五代友厚がともした“大阪の経済の灯”は、今もこの街で確かに輝き続けている。