■秀長を恨む“ブラック秀次”という演出
「豊臣兄弟!」11月1日放送回で、豊臣秀長と甥の秀次の確執がいよいよ顕在化するのではないか、と思われる場面があった。
秀次の母・ともが、秀次に問う。
「あんた、小一郎(秀長)のことが嫌いなの?」
秀次が返す。
「違います。向こう(秀長)が私を嫌いなのです」
ひるがえれば10月11日放送回でも秀長が、「秀次は天下人の器ではない」と口にするなど、どうもこの両者の関係はきな臭い。11月8日放送回でも秀吉の刀狩り令を巡り、意見の相違が描かれるのではないかと予想される。
もっともこれは大河ドラマならではのフィクションであって、実際にふたりが不仲だったことを証明する文献史料はない。秀長が“いい人”ゆえ、敵対する“悪役”の存在が必要であり、その汚れ役を秀次が担った演出と見られる。腹の内を隠して秀長を憎む“ブラック秀次”は、興味深いキャラクターだ。
一方で「豊臣兄弟!」では、秀次は秀吉の傍らに座している場面も多い。かつては「秀次は秀吉の潜在的な敵対者である」という説が一般的だったが、近年では「両者は協調関係にあった」と見られるようになっており、そうした新しい秀次像が、叔父との関係に描かれているように思える。
■後継候補は秀次だけではなかった
そこで、ここでは専門家の方々の見解をもとに、秀次の実像に迫ってみたい。
まず、秀次が豊臣の後継者になった経緯について。
秀次は、秀吉と茶々との間にできた第一子・鶴松がわずか数え3歳で夭折したことによって豊臣2代関白に就いたが、第二子・拾(ひろい)(のちの秀頼)が誕生すると秀吉に疎んじられてしまったというのが、私たちがこれまでよく聞いた話である。
だが、事はこれほど単純ではなかったようだ。後継候補は、他にも複数いたからだ。例えば於次秀勝。秀吉が織田信長からもらい受けて羽柴の養子とした人物で、一時は有力な後継候補だった。だが天正13(1585)年、19歳で没してしまう。
そこで、秀吉の妻・寧々の兄の子・羽柴秀俊(のちの小早川秀秋)が浮上した。小川雄氏(日本近世史/日本大学文理学部教授)は茶々との間に実子が誕生するまの中継ぎとして、秀俊に羽柴宗家を継がせる考えだったと指摘している。ただし、秀俊はこの時点ではまだ幼少のため、あくまで将来的な話である。
一方で、秀吉は誠仁親王の第六王子で後陽成天皇の弟にあたる智仁親王(のちの八条宮)を猶子に迎えていたため、関白職は智仁に譲る予定だったという。
つまり羽柴家は秀俊、関白は智仁――茶々が秀吉の子を産み、織田と羽柴の血が融合する理想的な後継者が誕生するまで、暫定的ながら秀吉はこの体制で臨もうとしていたという。
■「関白の座」が運よく転がり込んだ
また、河内将芳氏(日本中世史・文化史/奈良大学教授)は『多聞院日記』の記載などに「秀吉が王、弟の秀長が関白になる」という風聞があったことに着目し、秀長その人こそが後継候補だったとしている。
確かに秀長がもっと長生きしていれば、中継ぎとして彼を置き、秀吉に実子が生まれ成長するまで政権を維持してもらえば、申し分なかった。
だが秀長は病に倒れ、天正18(1590)年の小田原・北条攻めに参陣できなかった。秀長は自身の後継者として、秀次の弟・秀保を養子に迎えていたが、この人物もまだ幼かった。
反対に秀次は、この戦いで豊臣軍の先陣を担い戦功をあげる。秀吉の意向を汲んで編纂されたと考えられる『天正記』の「小田原御陣」の章も、秀次が後継にふさわしい力量を持っていたことを示唆しているように読み解ける。
天正18~19年の小田原の陣から秀長没(天正19年1月死去)の時期、後継者は秀次に絞られた――と考えて良いのではなかろうか。つまるところ豊臣氏長者=関白の座が「転がり込んできた」という印象があり、その意味ではとても「運が良い」といえるだろう。ただし、この運の良さが将来的に人生を狂わせるのだから、皮肉といえる。
その一方で、いまだに秀次には「殺生関白」すなわち残虐性向があったとか、女性関係の乱脈が過ぎたとか、悪い風評がつきまとっている。「暴君論」については否定的な見解が多くなってはきたものの、旺盛な女性関係疑惑については払拭されたといい難い。
■妻妾は十数人? 家康と比べると…
これは文禄4(1595)年に秀次が失脚し自害した際、妻・妾30人以上が連座して処刑されたことによる。人数に多少のばらつきはあるが、『多聞院日記』『言経卿記』『兼見卿記』などがそろって「(処刑されたのは)三十余」と記録していることから見て、この数字は信ぴょう性があるだろう。
ただし、こうした女性たちを全員妻・妾と記載したのは慶長15(1610)年成立の『太閤さま軍記のうち』であり、そこには「日ごろゑらびあつめをかせられ候御寵愛の衆三十九人」と記され、秀次の女性好きを強調している。
だが、処刑された者の中には妻・妾の世話をする女房衆が入っていたことも判明しており、実際の妻・妾は数人から十数人だったと考えられるようになってきた(前出・小川雄氏)。
十数人いれば立派な乱脈と捉える方もいるだろうが、徳川家康の妻・妾は15~20人ほどいたといわれている。人数だけを指して秀次を乱脈と断じるには、抵抗を感じる。
女性関係については天正19(1591)年末、秀次が関白に就任した直後、秀吉が戒めた覚書を宛てた件も引き合いに出される。そこでは「めくるひ」(派手な異性関係)に警鐘を鳴らしているとされるが、この「めくるひ」は「鷹狩り・茶の湯と並立する形であげており、秀次の趣向において、女色が突出していたと判断するのは早計」(前出・小川雄氏)という。
要は、秀吉はまだ若い秀次に、叔父としてやや辛口の小言をいっただけではないかと、考えられるのである。
後世、秀次というと妻・妾の多さからことさら女性関係を騒ぎ立てる風潮があったが、そうした見方も修正を迫られていよう。
■公家が記した関白・秀次の仕事ぶり
もうひとつ、同時代の史料として注目されるのが、公家社会が秀次をどう見ていたかを記載した『言経卿記』『兼見卿記』だ。
ここでの秀次は、関白就任までは羽柴一門の有力者として秀吉の朝廷政策を補佐する存在であり、関白になって以降は朝廷のトップとして儀礼や典礼を再興し、社会に威光を示す役割を滞りなくこなしていたようだ。
また、少なくとも文禄4(1595)年初頭の秀次事件まで、秀吉とのトラブルは記載されていない。
だが、記載されていないからといって、まったく軋轢がゼロだったともいえない。例えば天脈拝診怠業(てんみゃくはいしんたいぎょう)事件。文禄4(1595)年6月、天皇の侍医に、天皇より秀次の診察を優先させたといわれる事件で、近年ではこれを石田三成らが問題視したことが、秀次失脚の大きな要因になったといわれている。
秀次にはこのような軽々しい行動があったため、公家たちは「少なくとも何かしらの軽いトラブル自体は想定していたのではないか」、ただし「ここまで酷い事態(秀次自刃)になるとは想像していなかった」と、そう嘆いている印象を、日記から受けるというのだ。(『羽柴秀次とその時代』所収「『言経卿記』『兼見卿記』にみえる秀次」岸野達也)
■「暗愚な2代目」は変わりつつある
実像がどうであるにせよ、「豊臣兄弟!」が秀次の粛清を描くことはないはずだ。何しろ主役は豊臣秀長であり、秀長は天正19年に死んでしまう。それ以降の出来事は、ドラマで描いたとしてもナレーションだろう。
この記事の骨子は、秀吉と秀次は決して敵対関係にあったわけではなく、むしろ協調していたという説が現在の主流になりつつあること、それに伴い秀次像も、暗愚な2代目という批判から変わりつつあること、この2点である。
また補足ではあるが、秀吉は秀次を低く評価していたという説も、変わらずある。例えば秀吉は前述の小田原の陣において、甥の戦功をことさら強調する書状を九州の島津に送っている半面、身内の大政所(母)にはひと言も報告していない。
歴史家の藤田恒春氏はこのことをもって「秀次の手柄の信頼性が疑われる」と述べており、つまり秀吉は諸大名に対していかにも秀次を評価しているように喧伝する一方、一族に対しては高い評価を示していなかった可能性もあることを指摘している。
■時代と権力に翻弄されたひとりの人間
もっとも身内だからこそ、あえて甥の“査定”に言及しなかった――と、いえるかもしれない。
秀次は後継者として期待され、関白の座にまでのぼり詰めた一方、その地位にふさわしい振る舞いをつねに求められる立場でもあった。秀吉との関係も単純な愛憎や対立だけでは語れない。
後世に広まった「殺生関白」という悪評の陰には、政権を支える一門の有力者として役割を果たしながら、時代の変化と権力者の思惑に翻弄された、ひとりの人間の姿を垣間見ることができる。
秀次の実像を見つめ直すのは、豊臣政権の後継者問題を改めて考えることにつながる。そのことを通じて今後、「豊臣」を主題に大河ドラマを制作する際、興味ある新たな秀次像を創出してもらえたら、と思う。
参考図書
・黒田基樹編著『』所収「羽柴秀次の関白職相続」小川雄(戎光祥出版、2026年)
・同所収「秀次の妻妾と子供たち」小川雄著(同上)
・同所収「『言経卿記』『兼見卿記』にみえる秀次」岸野達也著(同上)
・河内将芳著『図説 豊臣秀長 秀吉政権を支えた天下の柱石』(吉川弘文館、2025年)
----------
小林 明(こばやし・あきら)
江戸文化風俗研究家 編集プロダクション「ディラナダチ」代表
編集プロダクションdylan-adachi(ディラナダチ)代表。江戸文化風俗研究家としてニッポンドットコム、和樂web、Merkmal、ダイヤモンド・オンライン、弁護士JPニュースなどに記事を執筆中。また『歴史人』(ABCアーク)、『歴史道』(朝日新聞出版)など歴史雑誌の編集も担当している。著書『山手線「駅名」の謎』(鉄人社)など。
----------
(江戸文化風俗研究家 編集プロダクション「ディラナダチ」代表 小林 明)

![[のどぬ~るぬれマスク] 【Amazon.co.jp限定】 【まとめ買い】 昼夜兼用立体 ハーブ&ユーカリの香り 3セット×4個(おまけ付き)](https://m.media-amazon.com/images/I/51Q-T7qhTGL._SL500_.jpg)
![[のどぬ~るぬれマスク] 【Amazon.co.jp限定】 【まとめ買い】 就寝立体タイプ 無香料 3セット×4個(おまけ付き)](https://m.media-amazon.com/images/I/51pV-1+GeGL._SL500_.jpg)







![NHKラジオ ラジオビジネス英語 2024年 9月号 [雑誌] (NHKテキスト)](https://m.media-amazon.com/images/I/51Ku32P5LhL._SL500_.jpg)
