花王は、物事の基礎となる原理原則の解明に力を注ぐ「本質研究」の一環として、1990年代から五感のひとつ「嗅覚」の研究を進めてきました。日々の生活の中で、香りによって気分が高揚したり、時には過去の記憶を鮮明に思い起こすなど、不思議な力を持っている香りとその感じ方に長年向き合っています。


ヒトの鼻には約400種類の嗅覚受容体があり、それぞれがセンサーのように働いて、数十万種類あるといわれるにおい物質の中から特定のにおい物質を認識します。その情報が脳に伝わることで、ヒトはにおいを感じます。それゆえに、においの感覚の本質を理解するためには、嗅覚受容体の働きを実験で調べることが重要です。しかし、約400種類という膨大な数は、その研究を困難にしてきました。

嗅覚受容体が発見された1991年から30年以上にわたって研究が限定的だった中、2025年に花王が大きな風穴を開けます。それが、約400種類あるヒトの嗅覚受容体の反応を網羅的に解析する技術「ScentVista 400™」の確立です。

約400種類の嗅覚受容体の反応を網羅的に解析する技術を確立PR TIMES×

今回、その嗅覚の研究がどのような変遷を辿ってきたのか、技術開発の裏側へ迫ります。

「ScentVista 400」開発の功労者であり、学生時代から嗅覚の研究に取り組んできた吉川敬一さん。そして、感性科学研究所(現 感覚科学研究所)の元室長で、嗅覚をはじめとした感覚研究を社内で牽引してきた中村純二さんにお話を聞きました。

熱意と好奇心で「”400種類”の壁」に挑んだ30年。嗅覚受容...の画像はこちら >>


左から、中村純二さん、吉川敬一さん

1990年代から始まった、花王の嗅覚研究。しかし、立ちはだかった”400種類”という数の壁

花王には、物質や現象の仕組みを解き明かす「基盤技術研究」と、そこで生まれた技術を実用化する「商品開発研究」があります。

花王が「本質研究」と位置付ける基盤技術研究は、物質や現象の背景にある本質を科学的見地から追求します。
より良いモノづくりを実現するため、研究対象は「物質」だけでなく、「人」の感覚・感性にも及んでいます。

感覚としての嗅覚は、人の感性に大きく影響します。現代では機能的価値だけでなく「心地よさ」といった情緒的な価値も商品開発には求められます。こうしたニーズに応えるため、花王は1990年代から嗅覚研究を始めました。

そして、2004年に「嗅覚受容体の発見」がノーベル医学生理学賞を受賞したことを受けて、花王は研究対象として嗅覚受容体に注目することになりました。そこから、生活に身近なにおいに対する心地よさの感覚が、どのような仕組みで生み出されているのかを解明したいと考えたのです。

熱意と好奇心で「”400種類”の壁」に挑んだ30年。嗅覚受容体の反応を網羅的に解析する技術「ScentVista 400™」を確立するまで。


嗅覚研究は、始めた当時から変わらず栃木研究所で行われている



しかし、その後の道のりは平坦ではありませんでした。嗅覚研究の最大の難関は、においを感じるセンサー「嗅覚受容体」の圧倒的な種類の多さにあります。

例えば、さまざまな色の感覚は、目の3種類の受容体(赤・緑・青それぞれに感受性を持つもの)の反応の割合によって生じます。一方、嗅覚の受容体は約400種類も存在します。それぞれの嗅覚受容体がどのように反応すれば、焼き立てのパンの香りやみずみずしい柑橘の香りといった生活で遭遇するにおいとして感じられるのかは全くわかっていませんでした。

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第一人者へのコンタクトが、状況を打破するカギに。
思い切って飛び込むことで、解決策が見え始めた

嗅覚研究の難しさは、嗅覚受容体の数の多さだけでなく、解析方法そのものにもありました。その理由には、鼻の嗅覚受容体を実験室で扱いやすい培養細胞で機能させることが当時できなかったことにあります。

嗅覚受容体を作らせる細胞として、本来のヒトの鼻を由来とする培養細胞を使うことは技術的にも難しく、実際できませんでした。そのため、世界的に実験に用いられてきたヒト腎臓由来の培養細胞を使うことにしました。しかし、腎臓の細胞は鼻の細胞とは性質が異なり、嗅覚受容体を細胞の表面にうまく作ることができず、そのためにおいに反応しなかったのです。

当時は、嗅覚受容体を評価できる研究機関は世界でわずかでした。花王でも同様の評価系を立ち上げようと努力しましたが、ノウハウを蓄積しながらも、今一歩を踏み出せずにいました。この膠着状態を打破する一つの転機が、2006年に訪れます。当時の研究チームのひとりが、嗅覚研究の第一人者である東京大学の東原和成教授に、接点がない中で飛び込んだのです。

「かなり思い切って、教えを請いに行ったと聞いています。先生は企業の研究者に対し、快く実験系を教えてくださいました。この出会いがなければ、今の花王の嗅覚研究はなかったかもしれません。」(中村さん)

熱意と好奇心で「”400種類”の壁」に挑んだ30年。嗅覚受容体の反応を網羅的に解析する技術「ScentVista 400™」を確立するまで。


花王の嗅覚研究に関する歴史について話す、中村さん



この協力により、研究チームの勢いが増していきます。

2009年頃から花王の嗅覚研究は大きく前進し、嗅覚受容体の遺伝子を用いて、細胞レベルで応答を検出する嗅覚受容体評価系が構築され始めました。中村さんがマネージャーとしてチームに加わった2013年は、まさに「脂の乗った時期」だったといいます。

多数の試行錯誤を重ねた末に、花王においても嗅覚受容体の評価が可能になりました。まさに追い風が吹いているタイミングで、学生時代にも同様の研究を行っていた吉川さんが嗅覚研究の担当となります。しかし、その前には、本質的な課題である「“400種類”の壁」が立ちはだかっていました。

当時の評価系では、においへの反応を解析することができた嗅覚受容体は1割もなく、残りの9割以上がブラックボックスでした。これは花王に限らず、嗅覚受容体研究における重要課題として世界で認識されていました。吉川さんはこの壁を乗り越えるべく、新たなアプローチでの研究に着手します。

最初に「嗅覚受容体を使っている鼻以外の細胞」を試しました。一例として、ヒトの体内では前立腺も嗅覚受容体を使っていることが示唆されており、前立腺の細胞を利用すれば、さまざまな嗅覚受容体をうまく作らせ解析できると考えました。しかし、この手法では、解析に成功した嗅覚受容体はわずかにとどまり、大きなブラックボックスを解明するには至りませんでした。

「嗅覚受容体を使っている鼻以外の細胞」を利用した研究の論文:Functional analysis of human olfactory receptors with a high basal activity using LNCaP cell line | PLOS One

途方に暮れた吉川さんは、次にアメリカのデューク大学の松波宏明教授に助言を求めました。
松波教授は、嗅覚受容体の発見によりノーベル賞を受賞した研究室で学び、独立してから嗅覚受容体の機能解析法について数々の発見をされています。花王はそれまで松波教授と接点がなかったものの、松波教授が大学時代の吉川さんの研究を知っていたこともあり、話は進んだといいます。

そこで得たのが、受容体の「アミノ酸配列」に着目する新機軸でした。松波教授らの先行研究は、培養細胞で機能しない受容体が、ヒトへの進化の過程で一部のアミノ酸が「奇抜なアミノ酸に変異した」ことを示唆していました。

「さまざまな生物種と比べて『奇抜な』アミノ酸を持つヒト嗅覚受容体は、培養細胞ではいわば不良品のような扱いを受け、うまく細胞の表面に出てこられず、においに反応しない。一方で、実際の鼻の中には、そうした受容体も巧みに表面に出してあげる仕組みがあると考えられています」(吉川さん)。

その「鼻の中の仕組み(補助因子)」を見つけて利用することが直接的な方法ですが、その発見には時間がかかることが見込まれていました。そこで「補助因子を探すのではなく、受容体そのものを変えてしまえばいい」という逆転の発想に至ります。ヒトで「奇抜なアミノ酸に変異した」少数のアミノ酸を、他の生物でずっと大事にされてきた形に「先祖返り」させる。このアイデアこそが、「ScentVista 400」の核となったのです。

熱意と好奇心で「”400種類”の壁」に挑んだ30年。嗅覚受容体の反応を網羅的に解析する技術「ScentVista 400™」を確立するまで。


培養細胞で嗅覚受容体を解析可能にするための工夫

この新しい評価系の正しさを証明するため、吉川さんと松波教授はまず、戦略的にある題材を選びます。それが、2022年に発表した「ムスクの香りの研究」でした。



ムスクが選ばれたのは、魅力的な香りから香料として重要とされていることに加え、ムスクを嗅げる人と嗅げない人の遺伝子の比較から、候補となる嗅覚受容体が報告されていたためです。

「先行研究でムスクを『嗅げる』『嗅げない』の個人差に関わる嗅覚受容体(OR5A2)が予測されていました。しかし、そのOR5A2は培養細胞でうまく解析できず、実際にムスクに反応する嗅覚受容体かどうかは決着が着いていませんでした。私たちの新しい評価系でそれを調べた結果、予測通り、嗅げる人の配列では反応し、嗅げない人の配列では反応しないことを実証できました。これは、私たちの評価系が『正しくヒトの嗅覚を説明できる』ことを示す重要な証拠になりました。また、同様の例として、パクチーの香りの好き嫌いと関連する嗅覚受容体も特定できています」(吉川さん)。

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一度は挫折を経験するも、そこから一筋の光を見出した吉川さん

当時の論文:An odorant receptor that senses four classes of musk compounds.

(Curr Biol. 2022; 32: 5172-5179)

関連リリース:「ムスクの香り」を網羅的に認識する嗅覚受容体の発見~化学構造からムスク香料の高精度な予測が可能に~

https://www.kao.com/jp/newsroom/news/release/2023/20230913-001/

花王の社風が困難な時期を乗り越える支えに。一筋の光をみつけた後も、膨大な量の検証を重ねて「ScentVista 400」の確立に

しかし、この「先祖返り」というアイデアを400種類すべてに広げていく研究は、決して順風満帆ではありませんでした。いつ、どのように事業へ貢献するかは常に社内で問われ、時には「なぜ嗅覚研究を続けるのか」といった議論に至ることもありました。

当時、吉川さんは「将来、この研究がもたらす壮大なゴール」を社内で提案していました。「今すぐ利益にはならないかもしれないが、これだけの未来がある」。吉川さん自身も「具体的にどう会社に貢献できるのか、はっきりとは示せていなかった」と振り返るその提案は、まさに研究者の熱意と可能性に賭けるものでした。
それでも提案が承認された背景を、中村さんは「基盤技術研究に予定調和はないのです」と語ります。

「企業での研究のため、『ゆくゆくはこうした貢献ができる』と可能性を示した提案をする必要はあります。ただ、その可能性は絶対的なものではありません。確実なものとは限らずとも、見つかったものの中から活かせるものを社内に示し、『今はこれだけの成果だけれど、すべてができたらこんな未来がある』と熱意を表すことが研究の継続には必要なことなのです」(中村さん)。

熱意と好奇心で「”400種類”の壁」に挑んだ30年。嗅覚受容体の反応を網羅的に解析する技術「ScentVista 400™」を確立するまで。


当時の様子を懐かしみながら話す中村さんと吉川さん



「基盤技術研究は大切だとの認識はありつつも、取り巻く状況は時々で変化します」と中村さんは続けて話します。たとえ厳しい状況下であっても、研究者の熱意と可能性を信じ、本質研究を重要視する花王の社風があったからこそ、研究は続けられたのです。

そうした苦難の時期を経て、研究の転機が訪れます。吉川さんが10個ほどの受容体で、アミノ酸配列を「先祖返り」させる工夫を試したところ、劇的な結果が出ました。

「9個の受容体が、これまでとは比較にならないほど安定して細胞表面に出てきたのです。これは嬉しかったですね。この時点で、確率的には9割方いけるだろう、と確信できました」

光が見えたものの、そこからが本当の試練でした。当時、未解析だった残る9割の受容体すべてに対し、ひとつひとつ最適なアミノ酸の工夫を施し、培養細胞でにおいに反応させるための条件を特定していく必要がありました。当時の研究を横からサポートしていた中村さんは、その時の様子をこのように振り返ります。

「400種類あるヒトの嗅覚受容体に対し、ひとつひとつ苦労しながら確かめていく吉川さんを見ていました。結果が出たからこそ、こうして語ることができるわけですが、当時は出口があるかどうかもわからないわけです。地道な努力に頭が下がります」

このテーマを担当していた吉川さんは、1年間に約300種類もの受容体について、培養細胞上に作られているかを調べる解析を進めたといいます。ひたすらに粛々と努力を重ねたと吉川さんは笑って話しますが、忍耐力が強く求められる時期となりました。

熱意と好奇心で「”400種類”の壁」に挑んだ30年。嗅覚受容体の反応を網羅的に解析する技術「ScentVista 400™」を確立するまで。


吉川さんには地道な努力と相当な作業量が求められた



さらに大変だったのは、その「裏付け」でした。アミノ酸配列を変えたことで、本来の機能が変わってしまっては意味がありません。 「配列を変えた受容体が、元の受容体と同じようににおいに応答するか。その機能が変わっていないこと(リスクが小さいこと)を証明するデータを取るのが、地道で大変でした」と吉川さんは言います。

そしてついに、2025年に400種類の嗅覚受容体の反応を網羅的に解析する技術「ScentVista 400」が確立されました。これにより、においに特徴的な嗅覚受容体の反応パターンの見える化が出来るようになりました。例えば、異なるにおい物質がよく似たにおいに感じるケースや、同じにおい物質でも濃度によって異なって感じるケースについても、受容体の反応パターンの様子から説明できることがわかってきました。また、生活に身近な例では、肉とハーブの組み合わせといった調理のコツも、受容体の反応パターンとして客観的に説明できるようになったのです。

熱意と好奇心で「”400種類”の壁」に挑んだ30年。嗅覚受容体の反応を網羅的に解析する技術「ScentVista 400™」を確立するまで。


においに特徴的な嗅覚受容体の反応パターンの見える化



関連リリース: 約400種類の嗅覚受容体の反応を網羅的に解析する技術を確立

https://www.kao.com/jp/newsroom/news/release/2025/20250924-001/

粘り強く歩み続ける研究姿勢が、現象の原理を解き明かす大きな一歩になる

「ScentVista 400」のリリース発表に際し、デューク大学 松波教授からも喜びと期待のコメントがありました。

「ヒトをはじめとする哺乳類の嗅覚受容体はそれぞれ、どのようなにおいに反応するのかを解析することが非常に難しい状況が続いていました。それが、香りを論理的にデザインする技術開発を妨げてきたとも言えます。今回の「ScentVista 400」の開発は、そうした課題を乗り越えるものとして現状で最善のアプローチだと考えられます。研究アイデアがブレークスルーのきっかけとなったことを大変喜ばしく思います。嗅覚受容体の本質的理解は、魅力ある香りの創出だけでなく、より豊かな香り環境の実現にもつながると考えており、今後の展開を楽しみにしています」(松波教授)

また、「ScentVista 400」の学会発表に対しても高い評価と反響を頂き、他業界の企業や大学からのお声がけも増えています。嗅覚受容体の研究により、鼻・においの原理が見えてきました。ここからより理解を深め、より人の生活が豊かになるよう発展させていきたいと吉川さんは話します。

情報の収集から始まり、一歩一歩、嗅覚の世界を本質研究により紐解いてきた花王。すぐに「製品」という成果にはならないものの、このような本質研究を諦めずに粘り強く続けていることが、未来の大きな実りにつながります。

今回の研究も、「ScentVista 400」を確立するまでに、幾度もの諦めてしまうようなポイントがありました。

もし、そのどこかで諦めていたら、この技術は生まれなかったでしょう。

周囲を巻き込み、時には外部の第一人者とも連携し、粘り強く研究を続ける。いつ花開くかわからない道を歩み続けられる、好奇心の強い研究者が花王にはいます。

嗅覚の研究は「ScentVista 400」で終わりではありません。このシステムを徹底的に使い尽くし、嗅覚の原理を理解することで、新しい香りづくりの基盤となる可能性が広がり、次へのステップにつながるのです。研究者たちの挑戦は、これからも続いていきます。

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