目次

  • はじめに — 離職率が突きつける経営の“盲点”
  • 「人的資本経営」で“辞めない組織”を設計する
  • A社の2年で離職率を30%台から16%へと半減させることに成功した理由
  • 離職率半減の逆転劇のステップ
  • 離職率の“質”と“量”の変化
  • 人的資本経営は離職率改善の“手段”ではなく“本質”である
  • はじめに — 離職率が突きつける経営の“盲点”

    また一人、若手社員が会社を去っていった――。

    このような光景は、日本企業の現場ではもはや珍しいものではなくなっています。人材が会社を辞めていく現象は、経営にとってどのような意味を持つのでしょうか。
    「離職率」という数字は、しばしば経営の盲点を浮き彫りにする鏡となります。

    近年、日本企業では『人が辞める経営』とも言うべき状況が広がっています。経済産業省の2022年版ものづくり白書によれば、この20年で製造業就業者は157万人減少し、特に34歳以下の若手は121万人も減ったといいます。人口減少と都市部への人口集中により、地方工場での採用難が深刻化しているのです。また、新卒入社後3年以内の離職率は大卒で約2割、高卒で約3割にのぼり、中小企業(従業員500人未満)では4~6割に達するという調査結果もあります。

    製造業は他業種より離職率が低い傾向にあるとはいえ、技能継承が欠かせない現場にとって早期離職の多さは深刻な問題です。

    Gallupの調査によると、従業員が離職する理由の半数は「上司から離れるため」であり、職場の人間関係や組織文化への不満は離職を決意させる大きな要因となっています。上司への失望が積み重なれば、優秀な人材ほど社外での活躍を求めてしまうでしょう。

    このように、離職率の高さは単なる人事部門の問題ではなく、経営そのものの課題として捉える必要があります。実際、国際規格ISO 30414においても、人的資本の情報開示は「最上位の経営課題」と位置づけられており、トップマネジメントが主体的に関与しなければ改善は困難だと指摘されています。

    地方の製造業に目を向けると、「採用難」・「定着難」・「後継難」といった人材流出のリアルが浮かび上がってきます。現場では一人の離職が事業継続に直結しかねません。
    新人育成には半年~数年を要し、せっかく育てても辞められてしまえば投資は無駄になってしまいます。熟練技術者が抜ければ不良率が跳ね上がり、億単位の損失につながるケースさえ報告されています。また、30代社員の離職増加で歩留まりが低下し、納期遅延が慢性化した鋳物工場の例もあります。このように人材流出がもたらす影響は深刻です。

    「人的資本経営」で“辞めない組織”を設計する

    では、どうすれば人が辞めない組織を作れるのでしょうか。その鍵は『人的資本経営』への視点転換にあります。人的資本経営とは、従業員をコストではなく資本と捉え、その価値を計測・最大化する経営手法です。

    その実践ツールの一つが、2018年に制定された国際ガイドライン「ISO 30414」です。ISO 30414では人的資本に関する情報を可視化・活用するために、11分野・58の指標が定義されており、その開示が推奨されています。日本でも導入が進み、2024年5月時点で14社が認証を取得しています。例えば、ISO 30414が定める指標には「ターンオーバーコスト(離職に伴うコスト)」があります。これは単に採用や研修に要した費用だけでなく、離職者によって生じた機会損失や、代替要員が見つかるまでの生産影響まで考慮して算出するものです。

    こうした精緻な可視化により、離職率という数字の裏に潜む本当のコストと原因に経営層が向き合うことになります。


    そもそも離職率は重要なKPIではありますが、あくまで“結果”を示す指標に過ぎません。数字の変動を追うだけでは問題の根本解決にならないのです。ISO 30414の思想が示すように、大切なのは数値の背景にある要因を分析し、その意味を読み解くことだといえます。

    では、離職率改善の真の打ち手とは何でしょうか。

    それは突き詰めれば二点に集約されます。

    第一に、自社にとって本当に「必要な人材 (Key Talent)」を定義して見極めること

    第二に、その人材が「活躍し続けられるような組織文化」を再設計することです。

    従来、多くの企業はすべての従業員を一様に捉えがちでしたが、実際には「痛手となる離職」と「痛手の少ない離職」が存在します。高い技能や意欲を持ち、組織変革の原動力となり得る人材を見極め、彼らを要として戦略的に繋ぎ留める発想が必要です。

    言い換えれば、「高いエネルギー量×変革マインド」を備えた要人材を定義し、彼らへの投資とエンゲージメントを優先するのが我々が提唱する組織へのアプローチとなります。

    同時に、組織文化そのものにもメスを入れる必要があります。減点主義でミスを咎めるばかり、部下は指示待ちで受け身――そんな「疲弊要因」に満ちた文化では、いくら採用や研修に力を入れても人は定着しません。


    実際、日本企業の停滞期の背景にはこの減点主義による活力低下があったとされ、近年では失敗を許容し挑戦を促す加点主義への転換が求められています。要人材が意欲を失わずに済むよう、評価制度やコミュニケーションの在り方を見直し、挑戦が歓迎される組織風土へとシフトしていくことが不可欠です。

    なぜあの会社は辞めないのか?地方製造業で実践する“人的資本経...の画像はこちら >>


    A社の2年で離職率を30%台から16%へと半減させることに成功した理由

    離職率改善のヒントを掴むため、当社が支援した地方製造業A社のケーススタディを紹介します。人的資本経営のアプローチにより、A社はわずか2年で離職率を30%台から16%へと半減させることに成功しました。その逆転劇はどのように起きたのでしょうか。

    A社は地方に本拠を置く従業員400名超の中堅製造業で、技能職比率が高い企業です。ここ数年、若手・中堅社員や一部管理職の離職率が慢性的に高止まりしており、毎年のように主力人材が会社を去る状況が続いていました。

    その結果、欠員補充の採用単価は年々上昇し、育成した人材が辞めることで教育コストもかさむ一方です。現場では常に新人教育と人手不足のしわ寄せが発生し、残った社員の疲弊感は募るばかりという悪循環に陥っていました。

    この危機に対し、A社の経営陣は人的資本経営の視点から離職問題を徹底分析しました。

    まず、経営層向けに「離職構造の可視化」ワークショップを実施し、誰がどの部署から辞めているのか、その属性や共通点を洗い出しました。ISO 30414の各指標(年齢構成、勤続年数、エンゲージメントスコア等)とも照合しながらデータを分解したのです。

    その分析により、離職者にはある傾向が浮かび上がりました。


    例えば、自発的に辞めた社員の多くは30代で技能も高い人材でしたが、自身の成長機会に限界を感じていました。実際、中小製造業では明確なキャリアパスを設定していない企業が多く、30代前半の社員の中には「10年後の自分が想像できない」という声も目立つといいます。A社も例外ではなく、昇進や成長の道筋が見えないことが離職を後押ししていたのです。

    また、定性調査からは社内に蔓延する文化的な問題も浮き彫りになりました。現場からは「ミスをすると厳しく減点される」「指示を待つ方が無難だ」という声が聞かれ、減点主義・指示待ちの組織風土が社員の活力を奪っていることが分かったのです。

    我々はこれらの知見をもとに、A社における「要人材」の定義づけを行いました。高いエネルギー量と変革マインドを併せ持ち、将来の組織の希望を担える人材を抽出し、可視化したのです。年次や職位にかかわらず、現場をポジティブに牽引できる人材が該当しました。

    彼らの配置や離職リスクを洗い出し、優先的にエンゲージメントを高めるべき対象として経営陣に共有したのです。

    離職率半減の逆転劇のステップ

    【STEP1】 経営層の意識改革とKPIの再定義

    まず取り組んだのは、経営層の意識改革とKPIの再定義です。ワークショップを経て、経営陣はそれまで漠然と捉えていた離職問題の実相を直視することになりました。離職率というKPIをISOの視点で細かく分解してみると、「残すべき人が辞めていた」ことに気付かされたのです。

    数値の裏側を検証すると、退職者の中には本来なら将来のリーダー候補となり得る有望な人材が少なくありませんでした。
    言い換えれば、離職者を一律に捉えていた従来の見方は誤りであり、致命的な“質”的離職(undesired turnover)が起きていたことが判明したのです。

    この事実を踏まえ、経営陣はKPIの捉え方を根本から見直しました。単に離職率という数字を下げることを目標とするのではなく、「どの層の誰が辞めているのか」をモニタリング指標とし、その構成要因にメスを入れる方針へ転換したのです。

    離職率はもはや人事部だけの数字ではなく、トップ自らが責任を負うべき経営指標だと再定義されました。

    【STEP2】 要人材の抽出とカルチャー変革の着手

    次に着手したのが、要人材の抽出とカルチャー変革です。前段で定義した要人材に該当する社員をリストアップし、彼らへの重点投資と働きかけを開始しました。具体的には、経営トップが彼らに直接キャリア面談を行い、重要プロジェクトへ積極的に登用したり、要人材の視点から自社をさらに良くするためにはどうしたら良いのか?の現場情報を積極的に吸い上げました。これにより、「組織の希望を背負える人材」への投資方針へ大きく舵を切ったのです。

    これは従来のように不足人員を闇雲に中途採用で埋めるのではなく、社内の将来の柱となる人材を軸に据えて育成する発想への転換となりました。

    同時に、組織文化の変革にも取り組み始めました。経営陣は「挑戦を称賛し失敗から学ぶ文化」への転換を社内に宣言し、管理職研修を通じて減点主義から加点主義へのマインドセット転換を促しました。

    現場では要人材に小集団改善活動のリーダーを任せ、社員が指示を待たず主体的に動ける風土づくりをスタートさせました。「上司が変われば組織が変わる」と言われるように、まず管理職自身が変化を体現することに注力しました。
    こうして若手やハイパフォーマーが「この会社で挑戦し続けられる」と実感できる環境整備が始まりました。

    【STEP3】 定着・活躍支援の制度設計

    最後に、定着および活躍支援の制度設計を行いました。社員が長く働き成長し続けられる仕組みを整備するため、キャリアステップの明確化と処遇の連動を図りました。

    具体的には、職種・等級ごとのスキル要件や昇進基準を公開し、社員が自分の将来像を描けるようにしました。評価・昇格プロセスを透明化するとともに、成果や習熟度に応じて報酬に反映する制度に改定しています。評価制度の不透明さが離職を招く一因だったことを踏まえ、公平で納得感のある人事制度へとアップデートしました。

    また、人材育成についても各人のキャリア目標に沿った研修計画を策定し、高い潜在力を持つ層にはリーダーシップパイプラインを意識した特別プログラムを提供しました。これらの制度改革によって、「努力すれば報われる」「この会社で成長できる」という実感を社員に与えることを目指したのです。

    なぜあの会社は辞めないのか?地方製造業で実践する“人的資本経営”と離職率の逆転劇


    離職率の“質”と“量”の変化

    こうしてA社の離職率は2年で30%台から16%前後へと大幅に低下しました。その数値以上に注目すべきは“質”の変化です。経営陣が「育てたい」と望む人材が辞めなくなったのです。当然ながら依然として一定の離職はあるものの、それは主に定年やミスマッチ解消といった許容範囲に留まり、組織にとって致命傷となる人材流出は食い止められました。文字通り「育てたい人が辞めない」構造へと生まれ変わったのです。

    離職率の改善は、採用・教育コストや現場生産性にも明確なインパクトをもたらしました。まず、毎年の補充採用人数が減ったことで採用費用は大幅に圧縮されました。新人研修に割くリソースも減り、既存社員のスキル向上やOJT充実に注力できるようになりました。現場では人手不足の慢性化が解消し、熟練チームが腰を据えて改善活動に取り組めるようになったことで、生産効率や品質指標も向上したといいます。

    冒頭で触れたように、従業員定着率の向上は企業の財務パフォーマンスと相関するとの研究もあります。逆に高い離職率は利益率の低下や品質不良とも結びつくため、その流れを反転させた効果は絶大です。事実、精密機械メーカーの例では離職率を半減させただけでなく、技能検定合格率を大幅に上げ、生産性向上にも成功しました。A社も同様に、人材の定着とエンゲージメント向上が業績改善の好循環を生み出しました。

    人的資本経営は離職率改善の“手段”ではなく“本質”である

    最後に、今回のケースから得られる示唆を考察します。

    A社の離職率低下はあくまで結果であり、その背景にあった本質的な変化は「人材観の刷新」です。従業員をコストではなく資本と見なし、人的資本へ戦略的に投資し始めたことが組織を蘇らせました。

    本稿で述べたISO 30414の活用も、指標体系を通じて「どこを測り、何を変えるか」を経営に問い直す手段となりました。言い換えれば、何の指標に着目し、そこからどんな組織変革に踏み込むかが、企業の命運を分ける分水嶺となるのです。

    そして今回何より重要だったのは、人的資本経営を推進する主体が経営トップであったことです。トップマネジメントが主語となり、人材戦略を経営戦略の中核に据えてこそ、定着と活躍の両輪が回り始めると気付かされました。

    離職率の低下と従業員エンゲージメントの向上は表裏一体であり、片方だけを追求しても長続きしません。グローバルな投資家もこうした人的資本に注目しており、CFA協会の調査では91%の機関投資家が「従業員の離職率データが投資判断に影響を与える」と回答しています。米国SEC(証券取引委員会)でも人的資本開示の強化が議論され、離職率は「価値関連の重要指標」と位置づけるべきだとの提言も出されました。

    しかし、人的資本経営は決して投資家向けのアピールや離職率という数字を下げるための手段ではありません。その本質は、社員一人ひとりが定着し活躍できる土壌を耕すことであり、結果として離職率という果実が得られるに過ぎないのです。離職危機に悩む経営者こそ、この“本質”に立ち返ることが求められているのではないでしょうか。
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