高密度な現在の情報社会に溢れる絵文字(emoji)は、空気や水のように僕らの生活に浸透した記号だ。その記号たちを無数に組み合わせ、楽園的なランドスケープや不思議なクリーチャーのビジュアルを生み出しているのが、アーティストのたかくらかずき。
INTERVIEW:たかくらかずき

データのアップデートと魂の輪廻の共通項
━━ まず、最近制作なさっている<アプデ輪廻>についてお聞きしたいと思っています。ブロックチェーン技術を組み込んだ作品ですよね?たかくら ブロックチェーンが意識の中心にある作品ではないですけど、そうですね。コロナ禍で世の中がクローズドなムードになったときに、友人と「最近、長い物語がぜんぜん終わらないよね」って会話をしてたんですよ。『進撃の巨人』や「エヴァンゲリオン」シリーズは最近やっと終わりましたけど、『ファイナルファンタジー』や『ワンピース』は終わらないし、『フォートナイト』ってゲームも毎月アップデートがあって無限に遊べちゃう。ソシャゲもそうですね。春夏秋冬みたいな時間感覚が希薄で、かつてあった「ストーリー」が「アップデート」に置き換えられつつある気がします。 そして、現在僕は仏教をテーマに作品をつくっていますが、現代美術やそのルーツである西洋美術、その根源となるキリスト教的思想には組み込まれなかった輪廻の概念が仏教にはあります。それもアップデートと呼べるじゃないかと思ったのが、作品をつくるきっかけかもしれません。



アプデ輪廻 ver2.0 -デジタルデータの実家-
テクノロジーと宗教に類似する“見えない“神秘性
━━ これは若い世代のアーティストに共通する感覚だと思うのですが、たかくらさんも作品が存在する空間やメディアに価値的な優劣をあまりつけないですよね。手でつくられたペインティングや彫刻だから価値が大きいわけじゃない。たかくら 僕はデータをつくってる意識が強くて、それがどのくらいの精度で現実にアウトプットされるかはあまり問題にしてない気がします。例えばイラストレーションの仕事でも、CMYK変換したときに色が変わっちゃうとかほとんど気にしてなくて、むしろずれている方が面白いと思ってしまう。デジタルデータは電気信号が生んだビジョンだったり、夢や幽霊みたいなものに過ぎなくて、それを自分の思った通りに物理空間に出力しようという意欲がないんです。もちろんマスターとしてのデータは存在するわけで、それをどう夢のままマスター化できるかっていうのは自分の大きなテーマではありますけど。



摩尼遊戯TOKOYO
ピカソ、ダリ…遺しかたの理想像
━━ ブロックチェーンやNFTのような新しい技術であっても、「後世に残す」や「永続的な価値を得る」といった人間の欲望を補強するものとしてあるのが面白いなと思います。その欲望自体が虚しいものだとも感じますが。たかくら 美術も人間の営みも、数万年後にはなくなってると思いますしね。それでも「残したい」と思うのが人間の本質なんでしょう。━━ 自分はインタビューして文章を書く仕事を主にしてますが、それは、自分が思考を始めるきっかけになったり、感動を与えられた作品や文化事象に対しての、ある種の「負債」を返すために続けてる意識があります。負い目というのかな。おそらくこの感覚は自分だけじゃなくて、美術に関わってる人間であれば多かれ少なかれ持ってるはずで、それが結果として、自分が帰属してる制度の維持のために働くところがある。一方で、映画『ファイト・クラブ』(1999年)のラストのように、クレジットカード情報が保存されたサーバーのある会社ビルを爆破して、全部吹っ飛ばしたいという欲望もあるんですけどね(苦笑)。たかくら でも残されることで100年前の作家の仕事を見れるのは単純に嬉しいですよ。進化生物学のリチャード・ドーキンスが『利己的な遺伝子』のなかでミームの話をしているじゃないですか。情報がDNAの伝達みたいに受け継がれていく。そこには希望を持てるかなと思っています。だから自分も何かをつくって恩返ししてるような感じ。4年ぐらい前にスペイン旅行をして、ピカソとダリの美術館を訪ねたんですよ。僕はもう、断然ダリが好みでした。━━ フィゲラスって街にありますよね。たかくら ダリが全部自分でデザインしていて、さらに彼の墓も美術館の下にあるんです。美術家としていちばん幸せな死に方だと思いますね。ピカソ美術館もいいんだけど、街の中心部にあって、警備員もめちゃくちゃいて、いかにも「僕が時代をつくりました!」って感じに溢れてる。それはそれで最高かもしれないですけど(笑)。それに比べて、ダリ美術館はスペインでもフランスとの国境に近い周縁に追いやられている。それは彼がファシズムに傾倒した時期があった※からという背景もあるらしいですが、ピカソやデュシャンが現代につながるものをつくってるなかで、それに反発するかのように端っこのほうで、異端かつカルトなものを生み出していた。そのころはまだきっと最新でカルト視されていたであろう量子力学の知見も深めていく。そういう生き方、死に方は憧れますし、自分の死に方も考えちゃいます。
※「ヒトラーを連想させるファシズムへの傾倒」を理由に、1934年の裁判によって当時所属していたシュルレアリスト団体より脱退させられている。
━━ 変な質問ですが、どういう風に死にたいと思います?たかくら どう死にたいかなあ。お墓のことは気になります。実家にも先祖代々の墓はありますけど、そこに入ろうとは考えていない。面白いお墓に入って死にたいので、準備として今はお墓の作品を作っているのかもしれません。お墓っていろんな意味を持つもので、徳川家康の日光東照宮、ファラオのピラミッドのように権力の象徴にもなります。でも、墓にちなんだお祭りなんかもあって、基本的には面白いものだと思うんですよ。デジタルデータもこの後消えていくとしたら、データのためのお墓、埋葬ってどうしたらいいんだろう、とか。そういうことをずっと考えていますね。


アプデ輪廻 ver1.0Photo by Yuji Oku
「社会のヴィラン」としてのアーティスト観
━━ 芸術が、生者だけでなく死者や人間ではない存在や概念について考えるためのきっかけになってきたからこそ、昨今のポストヒューマンや人新世の議論と芸術が結びつく機会を多く見かけます。たかくらさんの関心も近いところにある?たかくら そうですね。でも学問的、社会的な正しさや実践という方向性にはあまり向かわないと思います。おそらくそこに答えはないから。だったら、人の想像力もデジタルデータも、人間の脳やコンピューターを走る電気信号によって生まれるのであれば、そこに日本の仏教や神道にある八百万の概念をインストールすれば、電気信号そのものにも思考があると考えることもできる。そういうふうに極端に飛躍して作品にする方が僕は面白いと思っています。極めて主観的な世界観だけれど、絶対的に客観的な正義って存在しないと思っているので。━━ 人間の数だけ主観があって、その主観のつらなりで現行の社会が出来上がってるというか。どうしても人間は自分の正しさを盲信してしまいがちで、それを他者や他の文化圏にも当てはめることができると考えてしまう。みんな考えが違い、仲良くできない相手も無数にいるけれど、その差異を前提として集まれる場所があり、そこで交わされる関わりと相互理解の集積が結果として世の中をよくしていくみたいなことができればいいんですけどね。たかくら いまはみんな分断してしまって、意見の異なる人同士が重なっていられる世界はもうなくなってしまった。さらに思想が近いクラスタの中でも、細かな差異で領土間の衝突が起こってしまっている。今日のインタビューに備えて、今朝、横尾忠則さんと糸井重里さんの対談を読んでたんですよ。横尾さん好きなんで気分を上げようと(笑)。そのなかで横尾さんが「絵描きになってなかったら犯罪者になってたかもしれない」って話をしていて、これが僕の思う芸術家の本質だなと。芸術家や表現者には社会の外側に存在して、社会を見る役割があるはずだから。でも、いまはその社会のなかに芸術も内在しきっていて、社会内の判断やジャッジを待って作品をつくってるようなところがある。それって全然アバンギャルドじゃないし、トリックスターでもない。サービス業ですよ。これは漫画家の友人から聞いた話なんですが、漫画業界にも似たようなことが起こっているみたいで、ジャンルがハッシュタグのように細分化されて、受注生産的なものばかりになっている。社会構造の外側にいる表現者っていうものが認められなくなってきていて「それってもう終わりじゃん」って思います。「ちょっと気持ち悪いよな」「怖いよな」って人や物がもう受け入れられない状態で、それこそ恐ろしい。━━ ネット広告によく出てくる漫画を見ると、そういうの多いですよね。貧困や差別の問題をテーマにしつつ、そこから生じる人間の妬みとかコンプレックスを煽るような広告ばかりで。作品の一部を切り取って、そういう風に見えるように演出されている場合もあると思いますが、そこに人間の欲望のニーズがあることを分かってマーケティングしているわけで、まったく社会の外部に向かう意思がない。むしろ内側に留め置こうとしている。たかくら 本来、表現や美術の歴史って、既存のルールを壊すことでパラダイムを転換していくものですよね。でもポストモダン以降はそのルールを強固にするばかりで、みんなをルールに従順なスポーツプレイヤーにさせてしまっている感じがあります。『アベンジャーズ』のサノスって、新世界をつくるために人口を半分にして、世界の半分をぶっ壊すっていうヴィランですよね。でも、ルールを壊すこと自体が悪になっている現在においては、本質的にはサノスこそが必要なトリックスターだと思うんです。映画では、もちろん悪夢のような大量虐殺でもあるので彼を抑え込む必要があったのですが、違う形でサノスの望みを肯定してあげれたらどういう世界になっていたんだろうとは考えました。━━ マーベル映画は「娯楽である」ってことを基調にしつつも、社会の矛盾を組み込んだ作劇をしてるじゃないですか。アメリカ人の精神性の限界と変容を主題とする『ザ・ライダー』(2017年)、『ノマドランド』(2021年)のクロエ・ジャオ監督を、『エターナルズ』(2021年内公開予定)に抜擢するのもそういうことだと思っています。ただ『アベンジャーズ/エンドゲーム』(2019年)に関しては、一連のMCUの完結編であって最大公約数の人が気持ちよく解放されて映画館から送り出されるエンディングを用意せざるをえなかったんだろうなと。最近配信で展開している『ファルコン&ウィンターソルジャー』(2021年)などの新シリーズでは、その無理矢理な結末がもたらした歪みを主題にしているので、またちょっと違うかなとは思いますが。たかくら 僕、やっぱりヴィランが好きなんですよ。戦隊ものとか『仮面ライダー』でも敵側の怪人が好き。アーティストも怪人であるべきだと思ってます。でも、現代のルールのもとでは怪人ってただのヤバイ奴になっちゃう。怪人の持っている社会にとらわれない思考実験の形とかファンタジー性が失われて、こういう悪いことしたから悪いやつだよね、っていう結果の話になってしまう。人類皆兄弟的な、「引いて見たらみんないい子だよね」っていう平和な話じゃなく、もっと圧倒的にミステリアスで、ルールや常識を揺るがす仕事をしていきたい。皆が正義を振りかざして怒りと恐れに燃える現代だからこそ、それを揺るがすような愛すべき狂人、みたいなやつがこの時代に多少はいても良いと思っています。





Text by 島貫泰介Photo by 中村寛史
PROFILE
たかくらかずき
日本の伝統的なスタイルとTVゲームやデジタルの持つ風味をミックスした作風で作品を手がける。TVやCM,映画のアニメーションを制作しつつ、2021年からはアーティスト活動にも力を入れる。現在はVRやNFTを使用し、デジタル表現の価値を追求している。近年のアニメーションワークスに、NHK教育テレビ「シャキーン!」「マリーの知っとこ!ジャポン」「まちスコープ」、劇場映画「WE ARE LITTLE ZOMBIES」、PARCOポイントCM、日本科学未来館ジオコスモス「未来の地層」など。ポータルサイトはこちら
EVENT INFORMATION

アプデ輪廻
アプデ輪廻 ver2.0 -デジタルデータの実家-:2021年4月1日(木)~ON LINE EXHIBITION(STYLY) | ONLINE SHOP(PRINT GOODS) | ONLINE SHOP(PIECE)詳細はこちら
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