
今月10日午後7時35分にFIFAワールドカップ(W杯)2026アジア最終予選(3次予選)日本代表vsインドネシア代表戦が大阪・市立吹田サッカースタジアムで開催される。
インドネシア代表戦を前に同国で4シーズンに渡ってプレーする山本奨(同国1部ペルシス・ソロ)にQolyがインタビューを実施。
高校卒業後にスペインへ渡り、東欧、東南アジアを渡り歩いた侍のキャリアに迫る!
(取材・文・構成 高橋アオ)
インドネシアでプレーする山本(左、本人提供)紺野和也、中川風希と過ごした高校時代、卒業後にスペインへ
埼玉県春日部市出身の山本は春日部市立立野小1年のときに大増サンライズで競技を始め、同市立大増中ではC.A.ALEGRE(アリグレ)でプレーした。当時はトップを中心に攻撃的なポジションでサッカーに励んでいた少年は、全国でも有数の強豪である武南高(埼玉)に進学した。
――C.A.ALEGREや武南高ではアビスパ福岡の紺野和也選手と一緒にプレーされていましたね。当時もすごかったですか。
「長い間一緒にやっていましたね。ただ(高校では)そんなに一緒にやっている期間はなくて、たまに(自分が所属しているチームに)上がってきたりしたときにプレーをしましたけど、中学校のときはとにかくドリブルができる選手でした。
ドリブルが本当にうまくて、その当時から“メッシ”みたいな感じのことは言われていましたね。左足だけでやっていましたからね。高校3年のときは本格的に和也が1個上の自分たちの代に上がってきてたので、そこで初めて1年通して一緒にやったという感じです。変わらずドリブルで左サイドから縦にどんどん仕掛けていましたね」

――1学年上には中川風希選手(J2藤枝MYFC、MF)が在籍していて、一緒にプレーされていたんですね。
「仲良くやっていました。当時僕はFWをやっていて、(中川と)2トップを組んでいました。風希とは話しやすいですし、スペインも1年一緒に行ったんです。
――後のJリーガーを二人輩出していて、山本選手もいましたから当時の武南は強そうですね。
「自分が関わったチームでいうと、インターハイに出場して1回戦で負けました。高校1年生のときはインターハイで準優勝しましたね。ただそのときはトップチームには絡んでいたんですけど、メンバーには入れなくて外から見ていたという感じです」
――強豪ぞろいの埼玉県予選を突破するだけでもすごいですよ。
「いまは昌平がちょっとレベルが違うという感じなんですよね。当時は武南、浦和東、西武台が並んでいて難しかったと覚えています」
――高校卒業後はすぐにスペインへ渡った決断がすごいですね。経緯を教えてください。
「高校2年が終わって春休みの段階で新チームの遠征で、波崎(茨城)に毎年いろいろな(チームが)全国から集まる大会に出ていたんですよ。自分の代の武南が優勝して、そこで自分はMVPに選ばれました。
そのときの大会のスポンサーが海外の留学を扱っているユーロプラスだったこともあり、(MVPの副賞に)『短期間のスペイン留学無料』がありました。それで高校3年の夏のときに一人でスペインに行ったんですよ。
そのとき参加したチームがラージョ・バジェカーノのアカデミーでした。その当時は「そういうチームがあるんだ」くらいでやっていたんですけど、ユースだと名門だったらしくて(笑)。
そこに1週間参加して、入れる、入れないとかそういう話ではなかったんですけど、評価がすごく高くて自分の感触としても『やれるな』と感じました。
(それに)海外の選手は同い年・同年代なのに、ラージョの人たちのプロっぽい振る舞いが『すごいな』と思いました。自分もそういうところでやりたいなという思いができて、早い段階で『海外に行く』と決めました」
スペインでキャリアを始め、モンテネグロで頭角
当時スペイン5部CDラティーナへ加入した山本は、1シーズンで31試合8得点を記録。その後はプロとしてプレーするために、東欧のモンテネグロへと活躍の場を移した。
――5部のラティーナだとアマチュア契約になりますよね。生活や適応は大変じゃなかったですか。
「いま思うとすごく大変でしたけど、当時は中川風希ともう一人同年代の人がいたから、チームは違いますけど、その3人がすごく仲良くてみんなで一緒に頑張っていました。

もちろんお金は全然ありませんでしたけど、親に仕送りをしてもらいながら、休みの日はみんなでサッカーをしに行って、そういう生活を1年間続けて楽しかったですね」
――スペインは下部リーグでも選手はうまいと聞きますけど、5部はいかがでしたか。
「レアル(・マドリー)Bにいた選手が一人チームメイトにたまたまいて、そういうレベルの選手と初めてやったんですけど、すごくうまかったですね」
――日本とスペインの違いはどこが具体的に異なりますか。
「いまは日本のサッカーもレベルが上がってきているので違うと思いますけど、当時(の日本)は『とにかくパスを回す』『取られないようにする』『安全なところにパスをする』というのが自分がやっていたときのイメージでした。
スペインはパス回しはうまいんですけど、勝負に行く、仕掛ける部分は『あ、こんなに取られるリスクがあるのに行くんだ』というプレーがありました。
――2016年にモンテネグロへ渡り、ルダル・プリェヴリャに加入しました。どのような経緯で移籍されましたか。
「(自身が契約していた)ユーロプラスにもともと所属していた代理人がいて、その人が(もうユーロプラスを)抜けていたんですけど、まだつながりがありました。
その人がモンテネグロ人なんですよ。日本語を喋れてすごくペラペラなんですけど。(その事情で)モンテネグロとのつながりがあったので、そこで最初にトライアウトへ行きました」
――ルダルはリーグ2度制覇している強豪ですね。レベル差などは感じましたか。
「当時は優勝していて強かったです。正直1年目はこのレベルに付いていくのに精一杯でした。(試合に)出ても何とか付いていって、こなせたらいいなというレベルの違いがありました」
――文化面や生活などは大変でしたか。
「すごく大変でした。スペインではプロじゃなかったのもあるんですけど、みんなが助けてくれたり、チームメイトが仲良かったです。
モンテネグロはもっとさっぱりしていて『チームメイトはチームメイト』みたいな感じです。仲がいい人同士はいいんですけど、特に外国人は下手だったり、ミスでもしたら文句をずっと言われる環境でした。
でもスペインはお給料をもらえなくてお金もまだ全然ない状態でした。モンテネグロだと最初の契約はほんの少しだったんですけど、住むところもタダで、ご飯もチームから出る状況でした。スペインから行った身としては『ありがたいな』というのはありました」
――その次の移籍先がペトロヴァツ、こちらも名門チームですよね。
「最近は頑張っていますね。自分が入った当時は下のほうを争っているチームでしたが、そこは監督が良くしてくれてチームにはいい思い出があります」

――こちらにはどういう経緯で移籍しましたか。
「1年目のチームが正直に言ってあまり財政面というかチームの組織的にも良くなかったんですね。
その次の年に選手がいなくなるという流れで自分も抜けてという感じです。特にこれだからというのはなくて、チームの流れというか状況的にみんな抜けて、そのうちの一人が自分だったという感じです」
――ペトロヴァツでは7得点を決めています。ポジションはどこでしたか。
「左ウィングをやっていたんですけど、どんどん中に入っていって自由な感じでやっていました」
――いまのスタイルとは違いますよね。
「もう全然いまはポジション自体が違いますね。いまはどちらかというとミッドフィルダーで後ろにいて、たまに上がっていくみたいな感じですね。
当時はウィングでずっと前に残って攻撃するという感じでしたね」
セルビアへステップアップ、インドネシアへの挑戦
モンテネグロに来て3シーズン目でウィングでブレイクした山本は、東欧でも最高峰のリーグであるセルビア1部へ活躍の場を移した。スパルタク・スボティツァでプレーを経て再びモンテネグロへ戻り、2022年からは新天地インドネシアへと飛び立った。
――セルビア1部スパルタク・スボティツァにステップアップします。東欧最高峰のリーグにたどり着きましたけど、これはどういう経緯で移籍されましたか。
「(モンテネグロ)1年目は悪くはなかったんですけど、いろいろアクシデントがありました。健康面が理由で1年目は満足に1シーズンを過ごせませんでした。それで2年目、21歳になるときですよね。自分と同い年の日本にいる選手が大学を卒業するタイミング、同い年で大学に入った人はそこからプロに行くか引退するかで分かれるという流れで、その年は自分も気合が入っていたんですよ。
その当時モンテネグロから何人かがセルビアに移籍をしていたので、『ここで結果を出して自分も』と思っていました。(モンテネグロからセルビアに移籍した選手の中には)野間涼太選手、一緒のチームでやっていたりもしてすごく仲が良かったです」

――他にも志村謄(のぼる、元FC町田ゼルビア)選手がそうですね。
「そうですね、(志村は)スパルタクにいました。その二人が当時モンテネグロで結果を出してセルビアに移籍をしていった選手たちです。当時の自分だけじゃないとは思うんですけど、モンテネグロで活躍をしてセルビアにステップアップしたいというのはすごく強かった。セルビアに行けたらその先のチャンスがあるから。それで21歳のときに頑張って、少し結果を出せてスパルタクから話が来ました」
――セルビア1部にはあのツルヴェナ・ズヴェズダやパルチザンもありますからね。
「レッドスター(ツルヴェナ・ズヴェズダ)、パルチザンは試合のときにベンチから観ていましたけど、そこの二つはちょっとレベルが違いましたね。セルビアリーグはレベルが高かったです」

――セルビアでは2試合の出場にとどまり、その後ローンで再びモンテネグロのイスクラに移籍しました。こちらの経緯を教えてください。
「スパルタクのときに全然試合には絡めませんでした。やっぱり試合に出たいという気持ちがあったので『移籍を』という話をしていました。そのときにモンテネグロのイスクラから話があって、しかもヨーロッパリーグの出場権争いをしているいいチームでした。
『それならOK』と選んで行きました。最初はローンで半年間行って、その後スパルタクとの契約期間をイスクラにそのまま移して残りました」
――イスクラで2シーズンほどプレーして、その後インドネシアのペルセバヤ・スラバヤに移籍されます。ヨーロッパから東南アジアへの移籍は葛藤はありましたか。
「その当時26歳で、ヨーロッパの中では若くない。モンテネグロ、ヨーロッパで続けてどこまで行けるのかと考えたとき、ちょうどそのタイミングでインドネシアから話がありました。
その先の選択肢は自分の中では決めやすかったですね。そこからは待遇のいいほうに行ったほうがいいと思っていたので、意外と迷いなく選べました」
――ヨーロッパからインドネシアへの移籍。インドネシアに対してカルチャーギャップはありましたか。
「まず国というか文化が違いますね。いままで経験したことがない文化でした。宗教の色がすごく強くて、お祈りの音が町中でずっと聞こえます。町もバイクばっかりですね。
サッカーもいまは外国人が(1試合)8人枠ありますけど、その当時は4人だったんですよ。試合のレベルが高いかと言われたら全然そうじゃなくて、そういう面でも最初は逆に難しさがありました」
納得できるまで続けたい
2022年にインドネシアへ活躍の場を移して初のシーズンでリーグ戦33試合10得点を記録。今季で4シーズン目となり、同国の外国籍選手では指折りのハードワーカーとして存在感を見せている。南国の島国で奮闘する山本に、サッカー熱やキャリアの目標などを聞いた。
――東南アジアでもデュエルが激しいといわれるインドネシアリーグの特徴を教えてください。
「(同国に来た)当時はもっと『外国人頼み』のサッカーでした。試合に負けたら『外国人のせい』という感じでしたね。だからチームとしても戦うんですけど、特に外国人選手は結果を出すために、例えばサポーターにいい印象を持ってもらうために、ポジションが後ろの選手はガツガツ行くなど目立つようなプレーをする選手が多かったです。
言ってしまえば個人プレーが多いようなサッカーだったので、そういう難しさがありました。インドネシアのローカルの選手もレベルの高い選手がいますけど、平均的にそこまで高いわけではなかった。そういう面でも逆に一緒のチームでやる難しさがありました」

――インドネシアで「これはすごかったな」という印象深いエピソードはありますか。
「インドネシアのサッカーですごいなと思うのはサポーターですかね。いまもそうなんですけど、特に人気のあるチーム、サポーターが多いチームはスタジアムが埋まります。あの雰囲気でやるサッカーは『プロとしてやっているな』と感じます」
――浦和レッズのサポーターと比べてもサッカー熱がすごいとわかります。
「浦和は小さいころ(応援に)よく行っていました。日本のサポーターはどんなときもすごく応援してくれるじゃないですか。負けていても応援してくれます。基本的には『頑張って負けたらしゃあない』『よく頑張った』と言ってくれるサポーターたちじゃないですか。
こっちは負けたら味方のチームのサポーターでも『お前何やってんだ』という感じで試合の途中から雰囲気が悪くなる。ただ試合が始まるときは満員だとすごくサポートを感じたり、逆に相手チームはプレッシャーを感じると思う。そこは日本のサポーターと違うと思います」
――インドネシアのサッカーは成長している過程だと思いますけど、過去と現在の違いはありますか。
「そうですね。特にいまは自分が来た当時より外国人、選手、監督も含めたスタッフが増えてきている。(登録)枠も増えました。そういう面で試合のレベルは前よりもすごく上がっていると思います。
自分が来た1年目よりも圧倒的に今年のほうが上がっていると思いますし、監督も外国人の監督がすごく増えたので戦術的な部分、オーガナイズはすごく良くなってきています。
ただ逆にマネジメントがインドネシア人なので、マネジメントとスタッフ、現場の選手、監督たちとのギャップが生まれたりとか。また違う問題があり、最近よく聞いていますね」

――違う問題とは。
「例えば意識の問題ですね。試合に対する意識、試合に集中したいから選手と監督はストレスを抱えたくないじゃないですか。
ただそこでマネジメントはそういう部分を分かっていないのか、気にしないのか自分は分からないんですけど、こっち側がしてほしいマネジメントやオーガナイズをしてくれなかったりすると、そっちにエネルギーを使わないといけなかったりして。そういう部分はまだあります」
――現在所属しているペルシス・ソロは今シーズン残留を確定させましたが、苦しい1年となりました。来季への展望を教えてください。
「いまの段階ではまだ正式なリリースは出ていないですけど、一応合意してほぼ残ることは決まっています。個人的な目標でいうと、来季はいままでの中で一番いいシーズンにしたい。毎シーズンそうなんですけど、いままでのシーズン中で一番いいシーズンにしたいと思っています」
――キャリアの目標としてはどういうところに設定してるんですか。
「28歳でもう若くはありません。周りを見ればこのチームでは18歳の選手がいます。だから意外と『引退』というのがちょっと見えてきたりするんですよ。
まだまだ引退する気はないですけど、一つ目標としているのが35歳までは続けられたらいいなと。そこまでやるためにパフォーマンスと、いろいろなものをやれたらいいと思います。ただ単に続けるというのはやりたくないので、自分が納得できる状況の中で続けたいと思っています」

山本のインタビューは第2弾、第3弾と続き、第2弾は日本の脅威となり得る男について語る特集。山本の元同僚で欧州移籍を果たしたインドネシア代表の未来といわれる天才について、第3弾はサッカー史に残る前代未聞の大事件に巻き込まれたエピソードに迫る。