
かつて「白ロシア」と呼ばれ、ソビエト連邦(ソ連)の構成共和国の一つであったベラルーシ。
東にロシア、西にポーランド、北西にリトアニアとラトビア、南にウクライナと国境を接する同国は、ソ連崩壊に伴い1991年に独立したが、現在もロシアと密接な関係にある。
1994年にアレクサンドル・ルカシェンコ氏がベラルーシ初代大統領に就任して以降、独裁政治が続いており、昨年7月9日(現地メディア報道)と12月16日(在ベラルーシ大使館発表)には、二人の日本人が同国で身柄を拘束された。
そうした情勢下、日本人MF行方(なめかた)孝介は、ベラルーシ州立経済大で勉学に励みながら、同国2部FCドニプロ・モギリョフでプロサッカー選手としてプレーしている。
今回Qolyは行方に取材を実施。
後編では『ヨーロッパ最後の独裁者』と呼ばれる大統領が治める国で、大学生とプロサッカー選手の二足の草鞋をはく若武者の素顔に迫る。
(取材・文 Ryo)
ベラルーシでの最初のシーズン
──FKアシポヴィチ(ベラルーシ2部)に入団した経緯を教えてください。
「僕に大学進学を勧めたエージェントのつながりで契約に至りました」
──アシポヴィチの練習施設などプレーする環境面は、ほかの東欧諸国と比べてどうでしたか。
「プレーする上での最低限があるという感じですかね。あまり環境は良くなかったですけど、それも分かっていましたし、そういう環境に慣れていたので、特に戸惑うことはなかったですね」
ベラルーシ2部の試合に出場した行方(本人提供)──行方選手はこれまで、モンテネグロやクロアチアなどの東欧諸国でプレーしてきました。ベラルーシと言語的に似ていると思いますが、アシポヴィチ入団当初から言語的なアドバンテージはあったのでしょうか。
「全くなかったですね(笑)。それまではずっと英語で話していたので、この国に来てから大学でゼロからロシア語を勉強しました」
──チームメイトとはロシア語でコミュニケーションを取っているのですね。東欧諸国ではキリル文字が読めたり、言語を話せるとかなり歓迎されると聞きました。
「(言語を)話せることにこしたことはないと思います。
──アシポヴィチに入団した2023シーズンを通して1勝しか挙げられない苦しいシーズンだったと思います。
「そのシーズンは後期(同年8月)に入団しましたが、正直チームの雰囲気も良くなかったですし、僕も基本的に途中出場で、プレータイムが確保できない状況でした。リーグで下位のチームだったので、(他チームとの)実力差もあり、思うようなサッカーができませんでした。僕のプレースタイル的に、チームがボールを握れていないと(自分の良さが)生きないので、守備の時間が長く続いて厳しかったですね。ただ、ある程度はここ(ベラルーシ2部)でやれるなという自信はあったので、そこはポジティブにとらえていました」
行方が感じた東欧の独裁国家でのリアルな日常
2022年2月24日、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領がウクライナ・ドンバスでの『特別軍事作戦』の開始を発表し、ロシア軍のウクライナ侵攻が始まった。
両国の隣国であるベラルーシは、自国の領土内にロシア軍を駐留させるなどしてこの戦争に加担しているとされ、国際社会から『ロシアの共同侵略者』と非難を浴びている。
また昨年には二人の日本人が同国で身柄を拘束されるなど、日本人にとっても『危険な国』と印象付けられている。
ベラルーシでの生活が5年目となった行方に、同国での日常について話を伺った。

──日本人にとってベラルーシは『危険な国』というイメージがある人が多いと思います。実際に生活してみて、危険な体験や、隣国間による戦争の影響を受けた体験はされましたか。
「全くないですね。自分の身に危険が及ぶような経験は1度もないです(笑)。
僕自身、いままでいろいろな国に行きましたが、1番生活しやすいというか。逆に治安がめちゃくちゃいいんですよ。それこそ、アウェイから帰ってきてミンスクに着く時間が夜中の1時や2時になる日がありますが、(一人で)道を歩いていてもぜんぜん平気です」
──以前、X(旧Twitter)で、アシポヴィチで銃撃訓練があったという行方選手の投稿を見ましたが。
「たまに大使館からメールが来るんです。それ(銃撃訓練)もアシポヴィチの郊外だったみたいで。もちろん、必要最低限の情報のアンテナは常に張っていますが、僕が実際に危険な経験をしたことはありません」
──ベラルーシはロシア軍のウクライナ侵攻に加担しているとされ、国際社会から経済制裁を科せられました。その影響はありましたか。
「(ウクライナへの)侵攻が始まった当初は近くのスーパーマーケットやレストランでクレジットカードが使えなくなりました。それは僕が実際に影響を受けた経験ですかね。1年弱ぐらい(クレジットカードを)使えませんでしたが、いまはぜんぜん問題なく使えます」

──ベラルーシ人はどのような国民性だと感じられますか。
「けっこうシャイで、日本人に似ている気がします。仲良くなれば外国人らしいフレンドリーなノリなんですけど、知らない人同士だとあまりフレンドリーではないというか。
家の近くにスーパーマーケットがあるんですけど、(従業員が)がんばって勉強した日本語で話してくれたことがありますよ」
ベラルーシ州立経済大での学生生活
東欧の独裁国家のリアルな人々の生活は、意外にも平穏で、日本から遠く離れた地であっても、我々が営む日本での生活と変わらない温かな日常がそこにはあったという。
行方は現在、プロサッカー選手としてプレーするかたわら、ベラルーシ州立経済大の学生として学業に励んでいる。

──ベラルーシ州立経済大ではどのようなことを学んでいますか。
「いまは主に経済学のスペシャリストと、専攻が翻訳家(翻訳通訳学部)なので、言語を学習しています」
──行方選手の大学での様子を少し教えてください。
「大学には留学生の友達が多いです。ロシア語を学ぶときは留学生だけのグループで(授業を)するので、基本的に留学生同士は仲がいいです。もちろんベラルーシ人やロシア人の友達も何人かいます」
──同大学に日本人留学生はいないのでしょうか。
「僕の大学には誰一人いませんね。ほかの大学に日本人留学生が来ていたみたいなんですけど、ウクライナ戦争が始まったタイミングでみんな帰っちゃいました(笑)」
──ミンスクの大学に通いながら郊外のアシポヴィチへチーム練習に行っていた時期は、とても大変だったと思いますが。
「毎日、往復3時間弱ぐらい移動していたので大変でした。そのときは、大学の授業が午前中にあって、練習が午後からだったので、片道1時間ちょっとぐらいの道をチームメイトの車に乗せてもらったり、たまに電車を使ったりして移動していました。
大学の授業に参加できないときもありましたが、大学は僕がサッカーをやっていることを認識してくれているので、チームから大学に(練習や試合に行く)データを出して、僕は(出席できない授業の)代わりとなる課題を提出して出席扱いにしてもらっていました」

──いまの大学での学習を今後の人生にどう生かしていきたいですか。
「遅かれ早かれ、いずれサッカー選手は引退するので、その後は日本で働くと思います。
──2023年からロシア語の(ベラルーシ州立経済大)留学支援事業もされていますよね。
「本格的にやっているわけではありませんが、『もし海外に留学したい人がいればお手伝いします』という感じです。僕を大学に入れてくれたエージェントがやっていて、(僕は)日本人窓口みたいな対応をしています。このご時世なので(ベラルーシ留学に)行きたい人はいませんが、ちらほら質問が集まってきて、それにお答えしています」
自身二度目の契約破棄
アシポヴィチは2023シーズン、1勝しか挙げられないままリーグ最下位で3部に降格した。活躍を見せられなかった悔しさを晴らしたい行方はシーズン終了後、同クラブを退団してベラルーシ3部FCクルムカチ・ミンスクへ移籍した。
ディビジョンは前年のシーズンから一つ下がったものの、ヨーロッパの舞台を知る指揮官の下、同選手は1部リーグを戦った経験があるクルムカチで、確かな手ごたえを感じた。
しかし、2024シーズン終了後に、ベラルーシ2部FCドニプロ・モギリョフへのステップアップが決まるも、冬の移籍市場が閉まる5日前に突然、契約破棄を告げられた。最終的に元居たクルムカチと短期契約を結び、再契約を果たすが、昨季から監督やチームメイトが変わった環境で難しさを感じている。
それでも、これまで波乱万丈なキャリアを歩んできた男は前を向く。
──クルムカチに移籍した経緯を教えてください。
「一番の理由はチーム(アシポヴィチ)が降格してしまったためです。プレータイムが少なかったですし、結果も出ていなかったので、思うようなオファーは届きませんでした。
──2部のアシポヴィチと比べて環境の違いなどは感じましたか。
「リーグは下がりましたが、環境面は良くなりました。(本拠地が首都の)ミンスクということもあり、プライベートに割ける時間が多くなった点は自分にとって大きかったです。それと、監督(セルゲイ・コゼカ、ベラルーシ国籍)がサッカーを知っている方で、僕のプレースタイルを生かしながら(チーム構築を)してくれたので、昨季はすごく充実したシーズンでした。
監督は現役時代、ヨーロッパリーグ(2012-2013シーズンEL予選3回戦)でリヴァプール(イングランド・プレミアリーグ)と対戦したり、なかなかキャリアのある方です。ヘッドコーチ(ウラジーミル・ブッシュマ、ベラルーシ国籍)も、監督と同じチーム(同国1部FCゴメル)でリヴァプールと対戦していました。現役時代、国際大会に出るような監督とスタッフ陣がいて、いいサッカーをしていると感じました」
──『いいサッカー』とは具体的にはどのようなサッカーをしていましたか。
「ボールを握って、後ろからしっかり組み立てていく。ボールを走らせて相手を動かし、最後の局面で崩しきるような現代的なサッカーです」
──その中で行方選手がチームから期待されていた役割を教えてください。
「トップ下で出場していましたが、とにかくゴールに絡むことですね」

──昨季終了後、モギリョフへの移籍が突然破談になってしまったそうですが、何が起きましたか。
「今年2月中旬ぐらいに代理人からモギリョフの話をもらって行きました。
登録は本来、二日あれば完了するはずですけど、三日経ってもぜんぜん登録が進まないから、代理人とスポーツダイレクターが『どうなっているの?』と(モギリョフに)聞いたら、『契約をちょっと待ってほしい』みたいな。
それで、『やばいかな』と思っていたら、次の日の練習後(クラブに)呼ばれて、急に『今回の契約は白紙にしてほしい』と言われました。その理由を聞いたら、獲得意思を示してくれたオーナーが急に変わって、新しいオーナーが『今シーズンは外国人選手を使わない方針だから』と言われました。
去年モギリョフが1部にいたときに外国人選手を多く使っていて、ぜんぜん結果が出なくて、最終的に降格という結果になってしまったんです。外国人選手はそれなりにお金もかかっていて、それでも結果が出ないというところで、多分、その責任を前のオーナーが取ったのかなと。
(新しいオーナーは)地元の選手やユース上がりの選手を積極的に使っていくという方針だから、外国人はいらないという話しらしくて。そう言われてしまったら仕方がないという判断で契約しませんでした」
──それは大変でしたね。なんとかモギリョフに残る選択肢はなかったのですか。
「残ろうと思えば残れたんですけど、試合に出られなかったので、代理人と話して『どうするか』みたいな話になりました。(契約破棄を)言われたのが移籍のウィンドーが閉まる5日前だったんです。その間に新しいチームを探すとなると、その期間に決まらなかった場合、夏まで無所属になるリスクがありました。
それで僕が去年までいたクルムカチが、シーズン終了の段階からずっと契約延長の話をしてくれていたので、いまの状況を伝えたら『戻って来てほしい』と言われました。試合にずっと出られないチームにいるより、求めてくれたところの方がいいなという感じで、(今年7月15日までの)短期契約で戻っています」
──元居たチームに戻って来て、昨季と比べて難しさは感じますか。
「急に戻ることが決まって難しいところはありますね。チームはプレシーズンからずっとやってきていて、僕はウィンドーが閉まる1日前にチームに合流して、次の週末からリーグ戦が始まっていました。メンバーも去年の半分とはいきませんが、かなり変わっていたので、同じチームなのに別のチームに行った感覚です。
契約が7月15日までしかないので、そのあたりの監督のマネジメントは難しいのかなと感じています。そこは僕も理解しています」
──今後、プレーしてみたい国やリーグはありますか。
「大学を卒業するまでの残り1年半はベラルーシにいる予定です。その後はチャンスがあれば西ヨーロッパやロシア、将来的にはアジアでプレーしたいと思っています」
──最後に、今シーズンの目標と今後のキャリアの目標を教えてください。
「まずは必要としてくれたいまのチームへ恩返しできるように最低限の数字を残すことが第一目標です。それ以降は、もし移籍することになればさらにステップアップできるように頑張りたいと思います。その後に別の国のトップリーグに挑戦することが、今後頑張りたい」

自身二度目の契約打ち切りを経験した行方。理不尽を受け入れながらも、若武者の顔には不思議と揺るぎがなかった。むしろ、その瞳の奥にある自信が、彼の経験の深さを物語っている。
行方は大学を卒業する来年3月まではベラルーシでのプレーを続ける。東欧を渡り歩いた侍の活躍に期待したい。