佐野兄弟の出場は?日本代表になった「最強の兄弟」11名
佐野兄弟の出場は?日本代表になった「最強の兄弟」11名

サッカー日本代表は、今月5日にオーストラリア代表、同10日にインドネシア代表と対戦する。

日本はすでに3月に世界最速で2026年ワールドカップの出場権を獲得しており、森保一監督は初選出7名を含むフレッシュなメンバーを招集した。


注目は、兄弟で選出された佐野海舟(マインツ)と佐野航大(NECナイメーヘン)であろう。24歳の兄・海舟は2024年アジアカップ以来の招集で、21歳の弟・航大は初代表となっている。

彼らの出場はあるのか。ここでは、過去に日本代表の試合に出場した兄弟プレーヤーたちを見てみよう。

佐藤兄弟

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日本代表での佐藤寿人
佐野兄弟の出場は?日本代表になった「最強の兄弟」11名
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佐藤寿人と佐藤勇人

佐藤勇人/1試合0得点(2006)
佐藤寿人/31試合4得点(2006-2010)

佐藤兄弟は、日本代表の試合に出場した珍しい兄弟プレーヤーであると同時に唯一の双子プレーヤーだ。

兄の勇人はジェフ千葉で300試合以上に出場した鉄人MFで、弟の寿人はサンフレッチェ広島などで活躍。Jリーグ通算得点数で歴代1位となる220得点を記録したストライカーだった。

そんな二人は、イビチャ・オシム監督時代の2006年8月16日アジア杯予選・イエメン戦でともに途中出場し、双子でそろってピッチに立っている。

兄の勇人はこれが代表での唯一の出場に終わったが、その試合で弟の寿人が後半終了間際にゴールを決めている。

加茂兄弟

加茂健/2試合0得点(1936)
加茂正五/2試合0得点(1936)

加茂兄弟は戦前に活躍した兄弟プレーヤーで、ともに1936年のベルリン五輪に出場。兄の健は背番号10を背負った。

サッカー日本代表は、ベルリン五輪の本大会でスウェーデン代表に勝利する大番狂わせを起こし、“ベルリンの奇跡”と呼ばれた。

この試合ではスウェーデンに2点を先行されているが、加茂兄弟が得意とする左サイドから2ゴールが生まれて追いつき、逆転に成功している。

ちなみに同じ加茂姓だが日本代表などを指揮した加茂周氏との血縁関係はないという。

三浦兄弟

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日本代表での三浦泰年
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日本代表のエースだった三浦知良

三浦泰年/3試合0得点(1993)
三浦知良/89試合55得点(1990-2000)

日本サッカー界を牽引し、今なお現役として奮闘する“キング”こと三浦知良だが、実は兄弟プレーヤーとしても有名だ。

1学年年上の兄の泰年は、カズと同じくブラジル留学から読売クラブに加入した経歴を持つ。ただカズと違ってDFで、粘り強さやしつこさを武器に活躍した。

日本代表には、ケガをした都並敏史の代替として呼ばれた。日本のエースだった弟のような活躍はできなかったものの、1993年10月に行われたW杯アジア最終予選など3試合で兄弟そろって先発出場している。

日本代表で兄弟がそろって先発したのは、この三浦兄弟が最後となっている。

松永兄弟

松永行 /2試合1得点(1936)
松永信夫/4試合0得点(1942-1955)
松永碩 /1試合0得点(1951)

戦線戦後にかけて、3兄弟で日本代表に出場したのが松永兄弟だ。

兄の行(あきら)は、上述の加茂兄弟らと1936年ベルリン五輪に出場。スウェーデン戦で逆転の3点目を決め、“ベルリンの奇跡”の立役者となった。ただ28歳のときに戦死している。

弟の信夫も戦争の影響を受けたが、戦前と戦後に日本代表に選ばれた。もう一人の弟・碩(せき)は1951年にインドのニューデリーで開催されたアジア競技大会に出場している。

なお、碩は戦後、当時の読売新聞社社長・正力松太郎からサッカーのプロを作る相談を受け、東京クラブを編成した。

柱谷兄弟

佐野兄弟の出場は?日本代表になった「最強の兄弟」11名
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浦和時代の柱谷幸一
佐野兄弟の出場は?日本代表になった「最強の兄弟」11名
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“ドーハの悲劇”のイラク戦で主将を務めた柱谷哲二

柱谷幸一/29試合3得点(1981-1986)
柱谷哲二/72試合6得点(1988-95)

4学年違いの二人は代表での同時選出こそなかったが、柱谷兄弟は日本代表の肩書を持つ最も有名な兄弟プレーヤーかもしれない。

兄の幸一は1980年代に日産自動車で活躍したストライカーで、Jリーグ開幕後には浦和レッズでプレーした。

一方、弟の哲二は“闘将”と呼ばれたセンターバック。兄と同じく80年代は日産自動車で活躍し、Jリーグ開幕の時期にヴェルディへ移籍して黄金期を築いた。

哲二は類まれな闘争心とリーダーシップを持ち、オフトジャパンのキャプテンも務めた。1993年には三浦知良、森保一らとドーハの悲劇を経験している。

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