【インタビュー】東欧を渡り歩いた日本人MFが東欧の独裁国家で大学生になったワケ
【インタビュー】東欧を渡り歩いた日本人MFが東欧の独裁国家で大学生になったワケ

かつて「白ロシア」と呼ばれ、ソビエト連邦(ソ連)の構成共和国の一つであったベラルーシ。

東にロシア、西にポーランド、北西にリトアニアとラトビア、南にウクライナと国境を接する同国は、ソ連崩壊に伴い1991年に独立したが、現在もロシアと密接な関係にある。

1994年にアレクサンドル・ルカシェンコ氏がベラルーシ初代大統領に就任して以降、独裁政治が続いており、昨年7月9日(現地メディア報道)と12月16日(在ベラルーシ大使館発表)には、二人の日本人が同国で身柄を拘束された。

そうした情勢下、日本人MF行方(なめかた)孝介は、ベラルーシ州立経済大で勉学に励みながら、同国2部FCドニプロ・モギリョフでプロサッカー選手としてプレーしている。

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ベラルーシ2部FCクルムカチ・ミンスクのユニフォームを着る行方(本人提供)

今回Qolyは行方に取材を実施。

前編は千葉県の強豪サッカー部での刺激的な日々や、ウクライナで締結した契約が白紙になった衝撃的な出来事からベラルーシへ渡った経緯までを振り返ってもらった。

(取材・文 Ryo)

家族で上海に移住した幼少期

──サッカーを始めたのはいつからですか。

「(幼稚園)年中、年長ぐらいから(サッカーを)やっていたと思います。(サッカーを始めた)きっかけは覚えていません。両親に聞いたら、幼稚園のサッカーチームがあったそうです」

──行方選手は千葉県我孫子市の出身ですが、幼いころから地元の柏レイソル(J1)を応援していたのでしょうか。

「そうですね。柏レイソルは地元の好きなチームで、1番(プロで)目指しているところでした」

──中国の上海で生活したことがあると聞きました。

「父の仕事の関係で上海に行きました。小学校1年から6年の夏休み前までなので、5年とちょっとですかね」

──言葉が通じない環境での生活は大変だったと思いますが、当時はどのように感じていたか覚えていますか。

「生活に困ったことはあまりなかったです。

初めは日本人マンションに住んでいたのですが、途中でインターナショナルなマンションに引っ越して日常的に英語を使うようになっていましたね」

──上海ではどのような環境でサッカーを続けていましたか。

「日本人のみがいるチームと欧米人がいる多国籍なチーム(の2チーム)に所属していました。それらのチームで、現地のチームや中国超級リーグ(中国1部)の下部組織と試合をしていました」

千葉県の強豪校での学校生活は「毎日が刺激的」

行方は上海での生活を終えて日本に帰国後、中学進学とともに地元千葉県のクラブチームであるFCクラッキス松戸に入団した。

個々の高い技術に基づいた『南米スタイル』のサッカーを目指している同クラブで、行方は足下の技術を磨いた。

そして中学校卒業後、千葉県内の強豪校である柏日体高(現・日体大柏高)に進学し、レベルの高い環境に身を置いた。

「とにかく楽しかった」とほほ笑む行方に、同校での3年間を振り返ってもらった。

──柏日体高時代はどのようなプレーヤーだったのでしょうか。

「主に左サイドハーフでプレーしていました。(左サイドから)中央にカットインしていくようなドリブラーでしたね。いまはぜんぜん違いますが(笑)」

──高校時代の思い出を教えてください。

「学校生活も部活も、とにかく楽しかったですね。スポーツ科だったので、クラスの半分ぐらいがサッカー部のメンバーで、他の部活の人たちもトップアスリートたちでした。サッカー部のレベルは高く、いい環境で(競技が)できていたので、1人のサッカー選手として成長できたと思います。

高校3年のクラスメイトに、柏アカデミーの猿田遥己(はるき、GK、柏)と、宮本駿晃(としあき、DF、ドイツ4部ブレーマーSV)、田中陸(DF、J3・SC相模原)、鯰田太陽(なまずた・たいよう、MF、関東1部エリース東京FC)がいて、毎日が刺激的でした」

──同じクラスに柏アカデミーの選手がいた環境で、ご自身も「Jリーグを目指したい」という想いは強かったのでしょうか。

「もちろんです。身近にいた4人のうち3人(猿田、宮本、田中)が高校卒業と同時に(柏の)トップチームに昇格したので、それが1番刺激になりましたね」

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クルムカチでプレーする行方(本人提供)

海外トライアウトで不合格が続くも、バルカン半島でプロサッカー選手に

行方は2018年3月に日体大柏高(2016年4月に校名変更)を卒業したが、この時点で進路は未定であり、欧州へ数回トライアウトを受けに行った。

しかし、なかなか契約には至らず、入団が決定した当時クロアチア5部のNK BSKベリツァ(以下ベリツァ)への合流は2019年3月だった。

高校卒業後の日々やクロアチアでの選手生活、さらにその後、モンテネグロ2部へステップアップを果たした経緯について、行方が話してくれた。

──高校卒業後は欧州に渡ってトライアウトを受けていたそうですね。

「最初は2018年の1月にマルタへ行きました。(高校の)卒業式に出席するために1度帰国して、6月にもう1度マルタへトライアウトを受けに行きました。2019年の1月にスウェーデンに行きましたが、そこでも契約できなくて。もうどこの国も移籍市場が閉まっていて、たまたま知り合いの伝手で『クロアチアがまだ最後のマーケットが残っている』という話をもらって、そのままクロアチアに行きましたね」

──周りは進路が決まっている中で、焦りなどはありましたか。

「いや、実は日本の大学も受かっていて(笑)。両親と話し合って、大学に必ず受かることを条件に海外(トライアウト参加)を了承してもらいました。それに、身近でレイソル(のトップチーム)に上がっている友人を見て、『やっぱりプロになりたいな』という想いが強かったし、変な自信もあったので、別にプレッシャーはなかった気がします」

──ベリツァでは元ベガルタ仙台差波優人(さしなみ、現仙台アカデミースカウト兼アカデミーコーチ)選手とチームメイトでした。

同じチームに日本人の先輩がいるという部分で、差波選手の存在は大きかったですか。

「大きかったですね。優人くんはJリーグも経験していますし、歳も離れていて、同じ家に住んでいたので、いろいろ面倒を見てくれました。僕はそのとき20歳ぐらいで、(差波選手から)『とにかく若いうちは試合に出て、とにかく結果を出す』ということをずっと言われていました」

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ベリツァではJリーグでのプレー経験があるMF佐波優人(写真左端)とともにプレーした行方(写真右端、本人提供)

──クロアチアでのプレーを経て、当時モンテネグロ2部(今季1部)のFKモルナル・バールにステップアップされました。同クラブへ移籍した経緯を教えてください。

「一度日本に帰ったタイミングで日本人の代理人の方と知り合って、その人のつながりで(モンテネグロへ)行きました」

──なかなか試合に出られない難しいシーズンだったかと思いますが、改めて振り返ってみて、どのようなシーズンでしたか。

「(2020年)1月にチームに合流して残りハーフシーズンという時期にコロナ(新型コロナウイルス)が流行ってしまって。その影響でリーグ戦の再開も遅れて、そもそも数試合しか開催されなかったんです。その後、(リーグ戦が)打ち切りになってしまって、加えて自分もポジションを取れていない立場だったので、難しかったですね。

試合に出られなかったという自分の実力不足もありますが、『とにかくここから這い上がろう』という第一歩のときに、サッカー以外のこと、コロナの影響があったので複雑な気持ちでした。ただそのときは『それはもうしょうがないな』という感じで割り切りました」

新チームとの契約が白紙、コロナ禍でキャリアの危機に

新型コロナウイルスの世界的な流行の影響もあり、思っていたような出場機会を得られないままモルナル・バールとの契約を解除した行方。悔しさを糧に、同選手が新たな挑戦の地に選んだ国はウクライナだった。

しかし、またしても新型コロナウイルス流行の弊害を受けた。

同国の就労ビザが下りず、同国2部FCクリミン・クレメンチュクと交わした契約が白紙になってしまった。

2020年7月にモンテネグロを離れてから2023年8月にベラルーシ2部のFKアシポヴィチに入団するまでの約3年間、正式な所属クラブがない状況で、行方はどのような生活をしていたのか。空白の3年間について、選手本人が明かしてくれた。

──モルナル・バール退団後、ウクライナのチームとの契約が頓挫したと聞きました。ビザが下りなかったという話は事実でしょうか。

「そうですね。そのまま(モルナル・バールとの)契約が打ち切りになって、モンテネグロ人のチームメイトがウクライナ人のエージェントにつなげてくれて、ウクライナに行きました。(同国)1部のチームにも練習参加しましたが、最終的に2部のクレメンチュクと契約することになりました。

(チームから)『いまウクライナで労働ビザが発給できないから、隣国(ポーランド)のウクライナ大使館で申請してください』と言われて、バスでポーランドに行きました。そうしたら国境で『コロナの渡航制限で入国できない』って」

──それは焦りますね。どのようにしてその状況を切り抜けたのですか。

「ウクライナにビザなしで滞在できる期間が90日間で、そのとき僕はすでに3ヶ月ぐらい(ウクライナに)いたので、1度(国外へ)出ないといけなかったんです。ポーランドに入国できず、どうしようもないので、エージェントがベラルーシ行きの飛行機を手配してくれて、一旦ベラルーシのウクライナ大使館でビザを申請しました。

そうしたら大使館から『いまはコロナ禍なので外国人に対してビザを発給していません』と言われたんです。当然、労働ビザが下りないとプレーできないので、その後契約も白紙になりました」

【インタビュー】東欧を渡り歩いた日本人MFが東欧の独裁国家で大学生になったワケ
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コロナ禍のウクライナ・ポーランド国境のシェヒニ検問所(Getty Images)

──クレメンチュクと契約が解消になった後、ベラルーシのアシポヴィチに正式に入団するまで3年ほど期間が空きますが、その期間はどのような生活を送っていたのでしょうか。

「ウクライナの労働ビザを申請するためにベラルーシに行った際、体を動かすためにベラルーシのチームに練習参加していました。ベラルーシリーグは特殊で、2部以下のリーグは外国人選手がプレーできないんです。外国人がプレーできる条件の一つとして、(ベラルーシの)大学に在学しているステータス(身分証明)が必要でした。エージェントから『大学に行ってみたら?』と冗談半分で言われたのですが、僕は『それもいいな』と思って、ベラルーシの大学(ベラルーシ州立経済大)に通うことになりました。最初は大学生になれば(同国のリーグで)プレーできると思っていたのですが、本学生1年の授業を修了して2年に進級できればプレーできる資格がもらえるみたいなので、空白の期間があったという感じです」

──大学に通っている期間はどのようにしてコンディションを保っていましたか。

「地元のチームの練習に参加していました。エージェントがいろいろ面倒を見てくれました」

こうしてベラルーシ州立経済大に進学し、同校の学生として約1年間を過ごした行方は、2023年8月にFKアシポヴィチに入団した。

後編では「東欧の独裁国家」ベラルーシに渡った若武者の同国でのリアルな生活や、今後のキャリアについて迫る。

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