20年余り前、マリリン・マンソンは6単語の衝撃的な言葉「俺はファックの神(I am the God of Fuck)」で自分の名を世に知らしめた。
「この世で俺が存在する意義はカオスだ」と、この叙任された悪魔崇拝者はローリングストーン誌に語ってくれた。「俺は君が今までに見た映画の第三幕だ。俺は雨が降っている場面や君が死にたくないと思っている人間が死ぬ場面のようなものだ」。 2015年に発売したアルバム『ザ・ペイル・エンペラー』(アルバム内で彼は「ロサンゼルスのメフィストフェレス」と自称している)のリリースに関連し、ローリングストーン誌はマリリン・マンソンの最も衝撃的な瞬間の数々を追った。あまり甘くない夢はこれらのものでできている(Not-so-sweet dreams are made of these)。
90年代初頭:ショータイム!

Photo: Wenn
衝撃的な手段:ステージ上で妊婦の姿をした女優がナチス国旗のシワをアイロンで伸ばす演出をした初期のコンサートについて、マンソンは自伝の中で振り返っている。「ショーが進むにつれ、彼女はアイロン台の上に股を大きく広げて座り、妊娠中絶を行うふりをした」。
結果:トレント・レズナーと契約を結び、1994年7月、デビュー・アルバム『ポートレート・オブ・アン・アメリカン・ファミリー』をリリースした。
1994年:時間の浪費

Photo: Jacksonville Sheriffs Department
衝撃的な手段:フロリダ州ジャクソンビルのコンサートで、マンソンが「過激な下着を装着して自慰行為をし……観客に放尿した」として風俗警察に逮捕された。「風俗営業規範」違反で起訴されたと自伝でも振り返られている。
結果:マンソンは股間に穴の開いた黒いゴム製の下着を身に着けていただけだった。一晩拘置所で過ごし、精神鑑定を突破し一般社会に戻ってきた。
1994年:コールドカット

Photo: Wenn
衝撃的な手段:シングル「ランチボックス」B面のレコーディング中、マンソンは1人の耳の聞こえないグルーピーをスタジオに招待し、全裸にした彼女をホットドッグ、サラミ、豚足で飾りつけて写真を撮った。キーボード奏者のポゴが彼女とセックスし始めた時、彼は「お前の役立たずの耳の中でイッてやる」と叫んだ。
結果:このグルーピーはマンソンとベーシストのツイッギー・ラミレズに尿をかけられたため、シャワーを浴びた。「彼女もアートを理解でき、楽しい時間を過ごせたと思う」とマンソンは自伝で述べている。
1994年:アンチクライスト・スーパースター

Photo: Blanche Barton/Church of Satan
衝撃的な手段:サンフランシスコでナイン・インチ・ネイルズとのツアー中、マンソンはあるオフの日、悪魔教会開祖のアントン・サンダー・ラヴェイから面会依頼の電話を受けた。「面会の終わり間近、ラヴェイは「あなたを聖職者にしたい」と言い、悪魔教会の聖職者であることを認定する深紅色のカードをくれた」と自伝で語られている。「大学の名誉学位みたいなものだった」。
結果:マンソンは1997年に出版されたラヴェイの最後の著書「サタン・スピークス!」の序文で次のようにしたためた。「アントン・ラヴェイは自身の魔術を人々に分け与えた。彼の魔術はこの悲惨で忌々しい惑星をより良い場所に変えたと思う」。
1995年:いずれ血に染まる

Photo: Wenn
衝撃的な手段:マンソンは学生時代ポケットナイフで腕を切る自傷行為を命がけで行っていたが、そんな行為は胸に割れたビール瓶を突き刺したサンフランシスコでの宿命的なコンサートとは比べ物にならなかった。彼は自伝で「皮膚を超えて体の反対側に達するまで瓶を引いた」と回想している。
結果:マンソン本人の話によると、「自分の胴体という格子細工の中で最も深く大きな傷の一つ」になった。
1995年:罪深い煙

Photo: Patti Ouderkirk/WireImage
衝撃的な手段:1995年、ハイ・タイムズ誌のインタヴュー後、マンソンはもう1つの事実を付け加えるため、インタヴュワーに電話して言った、「俺たちが人骨の煙を吸った時のことを話し忘れたよ」と。さらに彼はニューオーリンズで墓を掘り起こしたこと、そこでは「イチゴみたいな骨を拾う」ことができることを自慢げに話した。それからホテルの部屋で友人たちにその骨を見せた。「俺たちは彼らに骨を切り刻んでパイプに入れ吸ってみろと説得した」と彼は話した。「俺たちも吸った」。
結果:「最悪だったよ」と彼は話した。
1998年:商品陳列の苦労

結果:このアルバムは現在これらの3社すべてのオンラインストアで購入可能だが、ターゲットではエクスプリシット・バージョンがクリーン・バージョンよりずっと安くなっている。
1998年:「スピン」コントロール

Photo: Kevin Mazur/Getty
衝撃的な手段:スピン誌の編集者クレイグ・マークスがニューヨークのライヴの楽屋でマンソンに会った時に、マンソンは約束されていた表紙から外されたため彼の家族を脅迫したといわれている。MTVによるとこの編集者は「お前を殺すことができる、お前の家族を殺すことも、お前の知っているすべての人間を殺すこともできる」とマンソンに怒鳴られ、マンソンのボディーガード2人に胸と首を壁に押し付けられたと主張したらしい。
結果:MTVの報道によると、この出来事はスピン誌の「未熟なビジネス行為」について「会話」をしていただけだとマンソンは説明した。マークスはマンソンに対し2400万ドルを請求する訴訟を起こし、マンソンは名誉棄損で逆提訴した。
2001年:Thongソング

Photo: Oakland Country Sheriffs Department
衝撃的な手段:デトロイト近郊で開催したオズフェストのセットで、マンソンはレザーのTバック(Thong:ソング)とパンストだけを履き、1人の警備員を引きずり上げ、彼の頭を自分の足で挟み局部を頭に押し付けながら踊った。
結果:当局はマンソンを暴行罪と強制わいせつ罪で告発したが、裁判官は後者の告発を棄却した。マンソンは2002年不抗争を申し立て、翌年罰金4000ドルを支払い、同事件から発展した民事訴訟で決着がついた。
2009年:ただの病気

Photo: Brian Rasic
衝撃的な手段:2009年豚インフルエンザによる混乱がピークに達していた頃、「俺は本物の医者により正式に豚インフルエンザだと診断された」と、マンソンは声明を出した。「医者は俺の過去の女性関係での選択はこの不可解な病気にかかったこととはまったく関係ないと言った。残念ながら俺は生き延びるつもりだ」。
結果:彼は生き延びた。
2013年:オープンな招待衝撃的な手段:マイケル・ジャクソンの15歳の娘パリスが、マンソンのコンサートへの参加を許されなかったという理由で肉切り包丁で手首を切ったと伝えられた次の日、マンソンは「ディスポーザブル・ティーンズ」の曲を彼女に捧げ、自分の手首を切るふりをするパフォーマンスをした。「君の気分が晴れるといい」とライヴ前のマンソンはパリスにツイートした。「いつでも望むときに君を俺の招待リストに載せてあげよう」。
結果:ハリウッドライフによると、パリスは病院で傷口を縫う手当てを受けた。