ライヴ・ショーの熱狂をそのままアルバムに収めるのは不可能だが、それは努力が足りないからではない。ジミヘンがモンタレー・ポップでギターに火をつけたライヴから、フェラ・クティとジンジャー・ベイカーのために200人弱がアビイ・ロードでスシ詰め状態になった演奏を収めたもの、さらにジョニー・キャッシュの『アット・フォルサム・プリズン』から『チープ・トリックat 武道館』といった、最高のパフォーマンスがなされたライヴ・アルバム50枚を紹介しよう。
ローリングストーン誌は、大部分が多重録音で作られたアルバム(ニール・ヤングの『ラスト・ネヴァー・スリープス』など)や完全なフェイク(重要作品だがビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニーの『チープ・スリル』)は除外し、印象的な瞬間が収められた作品や出世作、伝説的なジャム・セッションなどに絞って選出を行った。
50位 ザ・リプレイスメンツ『The Shit Hits the Fans』(1985年)

禁酒前のポール・ウェスターバーグ、クリス・マーズ、ボブ・スティンソン、トミー・スティンソンの4人は、ツイン/トーン・レコードからカセット版のみでリリースされたアルバム『The Shit Hits the Fans』のなかで、音楽史上最高の酒場バンドとして、最悪の酒場バンドとしての両方の一面を見せている。1984年、オクラホマシティの教会を改装したライヴ会場で吊りマイク2台を使って録音された24曲(うち19曲はカヴァー)には、ブルース、メタル、ソウルそしてビールを引っかけたようなでたらめな演奏が違和感なく混在している。「俺がポールか誰かにショーを録音してもいいか聞いた」と会場BoweryのマネージャーでDJのロスコー・シューメイカーは、ザ・リプレイスメンツのオーラル・ヒストリー『All Over But the Shouting』で振り返った。「”何で?俺たちはくそだよ”とウェスティらしい返事が返ってきた」。バンドはコミカルなブレイクダウンの間に、後にニルヴァーナやウィルコなどのポップを愛するパンクロッカーに影響を及ぼすことになったアルバム『Let It Be』時代を象徴する傷ついたスラック・ロックを披露した。『Sixteen Blue』や『Cant Hardly Wait』の曲での正確で激しいテイクは、ジャクソン5の曲『アイル・ビー・ゼア』やレッド・ツェッペリンの曲『ミスティ・マウンテン・ホップ』のまったく誠意が感じられないカヴァーで相殺されている。バンドはこのアルバムで、R.E.M.やU2、シン・リジィ、ザ・ローリング・ストーンズを完全に台無しにするカヴァーを終始繰り広げた。by Reed Fischer
49位 リトル・フィート『ウェイティング・フォー・コロンブス』(1978年)

リトル・フィートを再び返り咲かせた…まあ皆さんご存知のアルバム『ウェイティング・フォー・コロンブス』は、1977年8月にロンドンとワシントンDCで録音されたものである。録音の6ヶ月後にリリースされたこの作品はバンドのベストセラー・アルバムとなり、いつの間にかリトル・フィートの信頼を回復させていた。このライヴ・アルバムを制作するという計画を進めたのは、作曲センスが衰えたとしてバンド内で孤立していたプロデューサー、ローウェル・ジョージだった。『ディキシー・チキン』や『トライプ・フェイス・ブギー』などの曲を聴けば分かる通り、このアルバムは、彼らが今もなお有り余るほどのエネルギーと生演奏スキルに恵まれた、ニューオーリンズのファンクシーンにおける最強のバンドであることを見せつけるものだった。
48位 ダニー・ハサウェイ『ライヴ』(1972年)

ダニー・ハサウェイは、ギタリストのフィル・アップチャーチ、ベーシストのウィリー・ウィークス、ドラマーのフレッド・ホワイトといったシカゴ・セッションのベテランで構成されたバックバンドを従えて、この素晴らしいライヴセットで生き生きとしたスイングを披露し、観客を熱狂させた。彼がローズ・ピアノを激しく弾きながら12分バージョンの『ゲットー』を演奏し終えるとファンはすぐに盛大な拍手を送り、キャロル・キングの曲『きみの友だち』をゴスペルの陽気な歌声でカヴァーすると、ある女性は喜びの悲鳴を上げた。一方で、クインシー・ジョーンズとのコラボ映画『ハーレム愚連隊』のサウンドトラック・アルバムから1枚目のシングルとして1972年にリリースされた『リトル・ゲットー・ボーイ』は、発売前に肯定的な評価を得ることができた。このアルバム『ライヴ』はチャートの20位以内に入り、ハサウェイにとって初のゴールドディスク認定アルバムとなったが、完璧主義者で有名な彼はいつも通り自己批判を行った。「もちろん売り上げについてはうれしいけれど、アルバム自体は自分が求めたレベルには達していない。次の作品のためにもっと自分自身に磨きをかけなければ」とブルース&ソウル誌に語った。だが不運にも彼にそのような機会は訪れなかった。このアルバムは13分にわたる『エヴリシング・イズ・エヴリシング』の演奏で締めくくられているが、この曲は彼の統合失調症との闘いや1979年に33歳で自殺した彼の結末をさりげなく予見しているかのようだった。by Mosi Reeves
47位 ブギ・ダウン・プロダクションズ『Live Hardcore Worldwide』(1991年)

1973年のヒップホップの誕生から1979年のシングル『Rappers Delight』のリリースまでの間、ヒップホップはもっぱらライヴで演奏するものだと考えられていた。
46位 シン・リジィ『ライヴ・アンド・デンジャラス』(1978年)

1978年、当時超人気バンドだったシン・リジィは、同じグラム・ロック界の旅人デヴィッド・ボウイやT.レックスの作品を手掛けたことで名声を博したプロデューサーのトニー・ヴィスコンティと一緒に作品作りをすることを決意した。時間が限られていたのでライヴ・アルバムを作るという案に落ち着いた。そうしてでき上がったアルバム『ライヴ・アンド・デンジャラス』は批判を集める結果となり、『ダンシング・イン・ザ・ムーンライト』のような比較的メロウな曲ですら誰ひとり魅了することができなかった。ではどうして、このアイルランド出身バンドの作品は未だに話題にされるほど効果的に人を惹きつける存在になれたのだろうか。雑な部分を取り除くためにこのアルバムの75%はスタジオで録音されたとヴィスコンティは主張したが、バンド自身はその発言を強く否定している。「俺たちはすごくうるさいバンドだ」と、ギタリストのブライアン・ロバートソンは2012年、ギター・プレイヤー誌に語った。「そのなかでも俺はいちばんうるさい。だから俺のギターがいまいましいドラムキットの上で血を噴き出すほどうるさくなったら、君はギターをどうやってギターを交換する?」by Maura Johnson
45位 モーターヘッド『ノー・スリープ・ティル・ハマースミス』(1981年)

ローリングストーン誌が以前モーターヘッドについて記述した通り、もし彼らがヘヴィメタルを”本当に初めて表現した”存在だとすれば、アルバム『ノー・スリープ・ティル・ハマースミス』がレミー・キルミスター率いるバンドによっていちばん最初にその表現がなされた場になるだろう。英国の爆弾魔である彼らの歌は、オリジナルのスタジオ・バージョンではたいてい不快で乱暴な印象があるが、このライヴ・アルバム収録の1曲を除くすべての曲が録音された1981年の「Short, Sharp Pain in the Neck」ツアー(酔ってバカ騒ぎしている時に首を骨折した当時のドラマー、フィル「フィルシー・アニマルテイラー」にちなんだツアー名)では極端に速く激しい演奏がなされている。
44位 U2『ブラッド・レッド・スカイ=四騎=』(1983年)

真の危険を記録したライヴ録音。U2がデンヴァー郊外にあるレッド・ロックス円形野外劇場でライヴを実施した1983年6月5日は、あまりにもひどい悪天候でチケットは完売したはずなのに観客は半分も訪れず、オープニング・アクトのバンド(アラームとディヴァイナルズ)も安全上の懸念を理由に出演を取り止めた。だがそんなことはU2、特にボノを思い止まらせる理由にはならなかった。2004年にギタリストのジ・エッジがローリングストーン誌に明かした話によると、ボノは『ジ・エレクトリック・カンパニー』の曲の演奏中に送電線にぶつかりそうになりながら照明設備によじ登り白旗を振って、「彼を震え上がらせた」という。しかしこのライヴ・アルバムとライヴ・ビデオ、霧に包まれたなかで歌った曲『ブラディ・サンデー』のミュージック・ビデオからは本当に稲妻が走った。アルバム『ブラッド・レッド・スカイ=四騎=』の収録曲のほとんどはボストンやドイツのライヴ音源であるにもかかわらず、レッド・ロックスの映像は、巨大なスターダムにのし上がる前のまだ若く粗削りのU2としての最後の瞬間を印象づけるものである。
43位 ニール・ヤング&クレイジー・ホース『ウェルド~ライヴ・イン・ザ・フリー・ワールド』(1991年)

1991年前半にクレイジー・ホースとともに活動していた頃のニール・ヤングは、ちょうどキャリアを再興している最中だった。ニュー・アルバム『傷だらけの栄光』がバンドの最高傑作として認められ、彼らは古い曲も新しい曲のどちらも驚くほどのエネルギーと情熱を込めて演奏していた。このライヴ・アルバム『ウェルド~ライヴ・イン・ザ・フリー・ワールド』は、最高の瞬間を2枚組のCDに収めている。『ライク・ア・ハリケーン』の14分にわたる演奏は今でもこの曲の最高のバージョンのひとつであり、『コルテス・ザ・キラー』や『パウダーフィンガー』、『ヘイ・ヘイ,マイ・マイ』などのライヴの定番曲はこれ以上ないほど生き生きと演奏された。クレイジー・ホースのライヴの絶頂期がいつであるか決めるのは難しいが、このアルバムはかなりの確率でそれに該当し得るだろう。もともとこの作品は、曲の始まりと終わりに音のハウリングが多い35分の長さの1曲のみが収録された『Arc』とセットで梱包されていた。「今ここにいる自分は45歳だ。このアルバムは自分の頭の中で今どんなことが起きているかという本質である」と、この長くてうるさい組曲を作ったヤングは述べた。
42位 フィッシュ『New Years Eve 1995 - Live at Madison Square Garden』(2005年)

フィッシュがマディソン・スクエア・ガーデンで実施した1995年(から1996年にかけて)の年越しライヴは、おそらくほかのどのショーよりもこのジャム・バンドにとっての商業的な基準と芸術的な基準を作ったライヴだろう。長髪のオタク4人が出演するミュージカル劇の端にスタントが次々に登場する3つのセットを設置していたが、バンドの最も面白いトリックはいつも通り即興でなされた。例えば後に『That Dream Machine』などの曲を収録したトレイ・アナスタシオのセルフ・プロデュースによるサイド・プロジェクト『One Mans Trash』に見られるような第二セットの終わりでの遅延ループのモチーフなどがそうだ。「まるでひとつの時代が終わろうとしているかのようだった」と、ヴァーモントの4人組のかなり騒々しい歴史を特集した著書を執筆したパーク・プーターボーに、1995年秋に実施したバンドの長期ツアーについてアナスタシオは話した。『New Years Eve 1995 - Live at Madison Square Garden』は伝統的な即席テープやファンによる何ヶ月もの議論(トレイはザ・フーのカヴァー『溺れるぼく』でグレイトフル・デッドの曲『ファイアー・オン・ザ・マウンテン』をからかっていた?)だけでなく、3枚組のCDやつい最近リリースされたRECORD STORE DAY限定の6枚組のLP盤が出るなど、再生可能な音源になり得ることを証明した。by Jesse Jarnow
41位 ピーター・フランプトン『フランプトン・カムズ・アライヴ!』(1976年)

1976年の夏、見開きジャケットのついた2枚組ライヴ・アルバムの究極形態である『フランプトン・カムズ・アライヴ!』ほど話題になった作品はなかった。なお、A&Mレコードが2枚目のディスクを入れるべきだという奇抜な手段を取らなければ、ただの1枚のアルバムになるはずだった。ハンブル・パイのギタリストだったベテランのフランプトンがソロになったのは本当に喜ばしいことだった。『君を求めて』や『ショー・ミー・ザ・ウェイ』、特に『ライク・ウィ・ドゥ』(全部で14分間)などのシングルは本当にライヴ環境にいるかのようで、観客の雑音さえ感じられる。『フランプトン・カムズ・アライヴ!』は映画『サタデー・ナイト・フィーバー』のサウンドトラックに塗り替えられるまでだが、音楽史上最も売れたアルバムという記録を一瞬で打ち立てた。
40位 B.B.キング『ライヴ・イン・クック・カウンティ・ジェイル』(1970年)

B.B.キングのオープニング・アクトはつらい経験をした。1970年、ブルース界のレジェンドがシカゴのクック郡刑務所でのショーのために舞台へ上がる前、アナウンサーがまずジョセフ・ウッズ保安官をステージに招き入れたため、囚人たちは攻撃的なブーイングやヤジを飛ばして保安官を歓迎した。観客は無礼だったが、B.B.キングは気取らず謙虚な態度で彼らを魅了した。『ウォーリー、ウォーリー』や『スウィート・シックスティーン』などの曲をリラックスしながら披露した彼の様子は慈悲深く、人を惹きつけるのに控えめですらあった。「私たちが今までに開催したなかでいちばんのショーだった」と、囚人たちのためのパフォーマンスをキングに依頼した矯正局長のウィンストン・モンローは述べた。キングはバラード曲『プリーズ・アクセプト・マイ・ラヴ』の美しい調べでショーを終えるまでに、無我夢中で歌を叫びながら囚人たちの注意を引き付けた。by Brittany Spanos
39位 ジョニ・ミッチェル『マイルズ・オブ・アイルズ』(1974年)

ジョニ・ミッチェル初のライヴ・アルバムが出たのは彼女の名声がピークにあった時だった。大ヒット・アルバム『コート・アンド・スパーク』が発売された数ヶ月後に録音されたこのライヴ・アルバムは、カナダのシンガー・ソングライターの彼女がこの新しいフルアルバムのPRツアーにおけるカリフォルニア公演を記録したものである。本作品『マイルズ・オブ・アイルズ』では、1968年のデビュー・アルバム『ジョニ・ミッチェル』の収録曲までを含めた広範囲なコレクションが披露されているものの、ヒット曲は入念に除外されている。「ファン・ゴッホに「星月夜をもう一度描いて」なんて言う人はいないでしょ」と、ミッチェルは『サークル・ゲーム』を歌う前に言った。1991年に彼女はそんな比較をした理由をローリングストーン誌に明かしてくれた。「私は絶対にジュークボックス人間にはなりたくなかった。自分のアイデアをまだ使い果たしていないから。でも私がポップという分野で活動し続けていれば、世間がおばさんがそうすることを許してくれるかどうかに議論の余地が生まれる。そのためには私の才能を信じて関心を抱いてくれる誠実な観客が必要になる」。by Brittany Spanos
38位 ヴェルヴェット・アンダーグラウンド『1969~ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・ライヴ』(1974年)

ライヴ・アルバム『1969~ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・ライヴ』は、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのライヴ音源としてそれなりの出来であるのに、ここ数十年で多数の新しいバンドに音楽を始めるきっかけを与えた。1974年にヒットしたルー・リードのライヴ・アルバム『ロックン・ロール・アニマル』から数ヶ月しか経っていないなかでリリースされ、余分なものを取り払いシンプルになったリードがニューヨークのダウンタウンを越えて音楽に飢えた人たちにパンクの最前線である『1969~ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・ライヴ』を提供した。ダラスとサンフランシスコの少ない観客に向けて未来のスタンダードを披露していた頃のこのライヴ・アルバムには、バンドにとってほとんど完全に新しい楽曲が収録されている。例えば、ヴェルヴェットが今まで正式に録音したことのなかった曲(『オーヴァー・ユー』、『リサ・セッズ』、『オーシャン』)や形が定まらずに録音してきた曲のドラフト(『ニュー・エイジ』、『スウィート・ジェーン』)、リリース後の1975年にパティ・スミスがライヴハウスCBGBでの1曲目として歌った少なくとも1曲(『ウィアー・ゴナ・ハヴ・ア・リアル・グッド・タイム・トゥゲザー』)などだ。by Jesse Jarnow
37位 ニール・ヤング『時は消え去りて』(1973年)

1973年、ニール・ヤングは世界の頂点に立っているはずだった。アルバム『ハーヴェスト』の驚異的な成功はクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング(CSNY)の影から彼を引っ張り出した。シングル『孤独の旅路』が1972年にナンバーワン・ヒットを記録し、62回もの公演があるアリーナ・ツアーは全米で完売した。しかしクレイジー・ホースのギタリストであるダニー・ウィッテンの他界や腰痛による不調、バックバンドとの果てしない揉め事のせいで、このツアーは終わりの見えない苦行のようだった。この時点で数々のヒット曲があったにもかかわらず、彼は膨大なセットリストに『L.A.』や『Dont Be Denied』、『Yonder Stands the Sinner』のようなまったく新しい陰気な曲を入れることを選んだ。その新曲がライヴ・アルバム『時は消え去りて』に収録されたのである。1973年にリリースされた時、世間の反応はあまり好意的ではなく、数十年で廃盤になってしまったが、頑固なニールのファンは完全な傑作であるオリジナルのレコード盤は貴重で価値が上がったとしてこの事実を認識している。しかし驚くことでもないがヤングはまったく別の解釈をしている。「俺がいちばん嫌いなアルバムは『時は消え去りて』だ」と1987年に彼は述べた。「俺にとってこの作品は、もうお互い顔を合わせられないようなミュージシャンが大集結したバンドという印象なんだ。まったく話にならないよ」。by Andy Greene
36位 フランク・シナトラ『シナトラ・ライヴ・アット・ザ・サンズ』(1963年)

フランク・シナトラがMr.ニューヨークになる前、彼が本拠地としていたのはラスベガスだった。『シナトラ・ライヴ・アット・ザ・サンズ』は彼が最も熱狂していた瞬間を捉え、カジノに夢中になった観衆の様子と責任者が彼の傘下である俳優集団ラット・パックを厳しく批判した伝説のモノローグ『ティー・ブレイク』などが含まれている。本アルバムはジャガー/リチャーズよりもジョニー・マーサーのソングブックを好む人たちにとってこの時代における究極の作品となるだろう。クインシー・ジョーンズが指揮するカウント・ベイシー・オーケストラを従え、50歳になるクルーナー、シナトラによる温もりがあるのに威嚇するようなヴォーカルの力強さが最大限発揮されているからだ。『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』や『アイヴ・ガット・ユー・アンダー・マイ・スキン』のような代表作の決定版などが収録され、音楽はどれも素晴らしい。さらに、アニメ『空飛ぶロッキー君』のナレーターも務め、よく旅をする役で有名な俳優ウィリアム・コンラッドによる「サンズはこの新しい素敵なショーを開催することができて光栄です」というイントロダクションのおまけまでついている。by David Menconi
35位 アレサ・フランクリン『アレサ・ライヴ・アット・フィルモア・ウェスト』(1971年)

「ブルースを聴きたい気分の人はいますか?」アレサ・フランクリンは『ドクター・フィールグッド』の演奏を始める前にこう質問した。彼女は本当にそんな質問をしなければならなかった。当時、サンフランシスコの会場フィルモア・ウェストはジェファーソン・エアプレインのようなロック・バンドのライヴを開催することで知られていたからだ。彼女はおしゃべりの音をかき消すためにショーの序盤でサイモン&ガーファンクルのカヴァーさえ披露した。しかし先ほどの質問をする頃には観客が大きな声でイエスと答えた。フランクリンの返答には聞く価値が十分にあったのだ。彼女は『ドクター・フィールグッド』の演奏中、性的であり宗教的な印象がするほどに陶酔して頭をのけぞらせた。そして『スピリット・イン・ザ・ダーク』を二度目に演奏した時にはレイ・チャールズが登場した。彼はステージに上がるつもりではなく、ショーを観るために会場にいただけだった。彼は「このアルバムを聴けば、私が何も知らなかったことが分かるだろう」と1973年、ローリングストーン誌に語った。by Christina Lee
34位 ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ『ライヴ』(1975年)

ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズによる1975年の『ナッティ・ドレッド』のPRツアーは、1万5000人のファンがレゲエ・バンドのパフォーマンスを観るために集まった、アメリカのセントラル・パークを皮切りにスタートした。ツアーは太平洋を横断するまでに評価が定まったと言える。ロンドンのライシアム公演のチケットが完売した後、メロディ・メイカー誌は巻頭記事でボブのことを「ひょっとしたらディランが英国のコンサート・ホールを征服した時代以降、この国に上陸したなかで最も偉大なスーパースター」であると宣言した。これらのギグはいずれも録音される予定ではなかったが、アイランド・レコードの創立者クリス・ブラックウェルが最初のショーの狂気を目の当たりにしてすぐに、二度目のライヴ会場の外にザ・ローリング・ストーンズの移動スタジオを設置する手筈を整えた。その結果、辛辣な歌詞と抜け目のない歌唱、新しいギタリストのアル・アンダーソンによって勢いづけられたファンク・グルーヴが詰まった素晴らしい曲のコレクションができ上がった。7分にわたるシングル『ノー・ウーマン、ノー・クライ』は英国チャートでトップ10入りを果たし、今でもこの最高傑作の決定版であり続け、最終的には15回プラチナ・ディスク認定を受けたベスト・アルバム『レジェンド』の2曲目に選出されている。最初の序奏部に被さったマイクのハウリングにさえ感情がたっぷりしみ込んでいた。by Nick Murray
33位 フェラ・ランサム・クティ&ザ・アフリカ70・ウィズ・ジンジャー・ベイカー『Live!』(1971年)

ジンジャー・ベイカーは、クリームやブラインド・フェイスで3年間活躍したことでロック界の偉大なドラマーのひとりとして既に称賛を受けていたが、リズムをもっと学びたいという好奇心に駆り立てられてイングランドから戦争で苦しむナイジェリアへと向かった。「俺は踊らない」と、質問してきた旧友のフェラ・クティによる新しいバンド、アフリカ70にベイカーは答えた。「でもフェラの曲なら踊らないといけないな」。実はこの親密なコラボレーションは伝統的なロック・ライヴの会場ではなく、スタジオのアビイ・ロードで録音されたものであるのに本当に刺激的だった。ベイカーは自伝で次のように語っている。「150人の観客が色付きのスポットライトが設置された広いスタジオに押し込められ、壁の側で踊りまわった様子は本物のライヴ・ギグのようだった」。ベイカーとアフロビートの職人トニー・アレンがグルーヴを巧みに操り、世界一ファンキーなバンドのひとつが少し自由なロックをお見舞いした。by Christopher R. Weingarten
32位 ディープ・パープル『ライヴ・イン・ジャパン』(1972年)

ディープ・パープルはたったの7曲で興奮と気ままさを惜しむことなく発揮している。『ミュール』でのイアン・ペイスによる眩暈がするようなドラムソロから、ジョン・ロードによる『レイジー』の出だし部分の軽やかなオルガンの即興演奏、さらに20分にわたる『スペース・トラッキン』でのトリッキーなエンディングから、『スモーク・オン・ザ・ウォーター』でのイアン・ギランとリッチー・ブラックモアによるヴォーカルとギターの掛け合いなど、メタルのパイオニアである彼らはステージ上で使うトリックとアイデアのほぼ完全なスキルのコレクションを強引に手に入れた(そしておそらく確立した)。気軽に作られたものだが、非常に人気があり何度も再販されたこのアルバム『ライヴ・イン・ジャパン』は大阪と東京での3日間を記録したものである。この時のパフォーマンスはとてもカジュアルな雰囲気で、まるでバンドが観客もしくはテープ・レコーダーのせいで少し控えめに演奏しているのか、それとも子供が遊ぶみたいにこれらの曲を思い切り演奏するという純粋な喜びのためにのびのびとパフォーマンスしているのかと思わせるものだった。「実は俺たちはまったく何も考えておらず、誰ひとり録音されていることに気づかなかったほどだ」と、ロードは後にデイヴ・トンプソンの著書『Smoke on the Water』で認めている。「自分たちが普段ステージに上がる時と同じように相互作用や自発性、感情を抑えたなんてことは一切ない」。by Grayson Haver Currin
31位 キース・ジャレット『ザ・ケルン・コンサート』(1975年)

1975年1月、ピアニストのキース・ジャレットとECMレコードのオーナー兼プロデューサーのマンフレート・アイヒャーがドイツのケルンにやって来た時の状況は最悪だった。ジャレットは前の晩、睡眠を取っておらず痛みに苦しみ、さらにひどいことに彼らがリクエストしていたベーゼンドルファー製のピアノの代わりに質の悪いモデルが用意されていた。ジャレットによると、そのピアノは「なかに留め金がついたハープシコードかピアノの本当に粗末な模造品みたいな音がした」という。しかし、ケルンのオペラ劇場で深夜に実施された1時間にわたる彼のソロ・コンサートはリズムの瞑想に深く入り込ませるようであり、彼は矯正器具をつけてピアノを弾きながら眠ってしまいそうになった。その時の演奏が収められた2枚組のレコード盤はソロ・ジャズとソロ・ピアノの両ジャンルにおいて歴史上で最も売れたアルバムとなった。ジャレットが即興で演奏する幻想曲は次々と絶え間なくアイデアが溢れ出し、数分間同時にふたつのコードを即興で演奏し続けることもある。このライヴ・アルバムはジャレットのほかのソロ作品と比べてゆったりとした感じだ。即興演奏の技術を魅惑的に披露する一方で、叫び声を上げてため息をつき皆を夢中にさせるような彼の気取った態度の完成形として誇れるものだ。by Richard Gehr
30位 イギー・ポップ&ストゥージズ『Metallic K.O.』(1976年)

ストゥージズ初のライヴ・アルバムのB面は、今までに録音されたライヴのなかで最も危険なロック・ショーのひとつであると言われている。ストゥージズのフロントマンであるイギー・ポップは1974年2月のギグの数週間前にスコーピオンズという名の暴走族と公共の場で派手に喧嘩をした。そのためライヴにはバンドに投げつけるための果物や野菜、ビン、園芸道具といったありとあらゆる物体を携えたギャングたちが群れをなして現れた。しかしイギーはまったく動じなかった。彼のバンドは飢えて、ほとんど一文なしの崖っぷちだったからだ。セットリストは全体的に曲のチョイスにいたるまでわざと杜撰で調和もなく胃がムカムカするほど適当な構成が取られ、激しい”ふざけんな”という気持ちそのものだった。アルバム収録曲ではない『Rich Bitch』や『Cock in My Pocket』から最もにぎやかでほとんど原曲に即していないカヴァー曲『Louie Louie』へと続く。バンドがまったく愛想よく見せようと思っていないことが分かるのがこの部分だ。ジョー・アンブローズは著書『Gimme Danger: The Story of Iggy Pop』でその晩のポップがステージで話した内容をほんの少し記している。「ストゥージズが嫌いな人は手を挙げて。俺たちはお前たちのことは嫌いじゃない。眼中にもないから」。by Arielle Castillo
29位 フランク・ザッパ&ザ・マザーズ『ロキシー・アンド・エルスウェア』(1974年)

フランク・ザッパはあらゆるフェーズで、各フェーズを補完するような素晴らしいライヴ・アルバムを作ってきたが、『ロキシー・アンド・エルスウェア』は70年代半ばのザッパの極致と言えるだろう。一流のアンサンブル(キーボード奏者のジョージ・デューク、パーカッショニストのルース・アンダーウッドそして、えー、ギタリストのフランク・ザッパ)をまとめる能力や型破りな方法でやり遂げる能力(彼は時々ハリウッドで録音したものや「ほかの場所」で録音したものを継ぎ目なく並べてひとつの曲として編集する)、アルバム『アポストロフィ()』時代の激しいアレンジを成功させる能力をこれ以上ないほどに証明しているのだ。バンドは奇抜さを極限まで高めてパフォーマンスを行う。例えば、インスト曲『エキドナズ・アーフ』はシロフォンとシンセを予測不可能なほどの光速度で奏でた音を使い、ジャズとプログレ・ロックを挟み込んだような16分にわたる曲『ビー・バップ・タンゴ』はデュークが歌うポリリズムに合わせてどう踊るかという説明が含まれている(「あなたはまだアダージョすぎる」とザッパはジョークを言う)。一方でニクソンのパロディ曲『サン・オブ・オレンジ・カウンティー』(歌詞「あなたがそんなにバカだなんてまったく信じられない(I just cant believe you are such a fool)」)はザッパの魂が最もこもったギターソロのひとつを含んでいる。ザッパは最初にリリースされたCDに禅のような雰囲気のある注釈をつけている、「「宇宙はあなたが理解していようがいまいが関係なく動いている」ということに驚かされることがあるだろう」。by Kory Grow
28位 ラモーンズ『Its Alive』(1979年)

ラモーンズのキャリアの回顧録として彼らの絶頂期を反映し、覚せい剤でハイになったようなテンポのこの2枚組のLP盤は、同時期のカリフォルニアでハードコアを偶然見出しかけたクイーンズ出身のバンドがハードコアを創り出す姿を見せるものである。パンクのパイオニアは1977年のロンドンのレインボー・シアターでの4日間で、最初の3枚のアルバムから28曲を爆音で演奏した。(ラモーンズの曲が短くさっぱりとした長さであったおかげで、彼らはほとんどすべての曲を演奏することが可能だった。)最終的なLP盤の大部分は最終日のライヴで演奏された曲であり、あまりにも刺激的なエネルギーに溢れていたので熱狂したファンが床から外した椅子をステージにめがけて投げつけたと言われている。ツバを吐きながら歌うジョーイ・ラモーンは『ピンヘッド』と『ドゥ・ユー・ウォナ・ダンス』、『チェイン・ソウ』の合間でわずかに休止しただけで、アメリカン・パンクの約束のためにアルバム全体が力に溢れていたのは驚くことではない。彼はすべての歌詞を歌いきるのに十分な休息さえほとんど取らず、バンドはジョーイの後ろで機械工場であるかのように楽器をかき鳴らした。録音後の編集作業中、そのスピードはバンド自身でさえ追いつくのに苦労したほど速かった。エヴェレット・トゥルーは著書『Hey Ho, Lets Go: The Story of the Ramones』で、ディー・ディーはベースのオーバーダブを録音するのに燃料、つまり特別濃いブラックコーヒーを一杯補充する必要があったと記している。by Arielle Castillo
27位 ビル・ウィザース『ライヴ・アット・カーネギー・ホール』(1973年)

1972年10月のこの雨模様の金曜日は、ビル・ウィザースが航空機部品の工場での本業を辞められるほどの商業的なブレイクからまだ1年半しか経過していなかったが、この前途有望なソウル・スターは熟練したプロが使う世界で最も権威ある会場のひとつで観客の注目を集めた。ウィザースは祖母の教会にまつわる思い出話にふけったり(「葬式ではよく棺を縛りつけたものだ!」)、デートのエピソードを語ったり(彼は多くの「誰でも信用しすぎる傾向がある女性たち」に出会った)して、彼は自分の家のリビングルームでゲストを楽しませるかのように落ち着いた様子だった。ドラマーのジェイムズ・ギャドソンに勢いづけられ、ピアニストのレイ・ジャクソンにリードされた彼のバンドは、現世欲を強調するため『ユーズ・ミー』を荒々しく演奏し、伝道集会の一幕のような汗臭いクロージング曲『Harlem/Cold Baloney』でショーを終えた。by Keith Harris
26位 ボブ・シーガー&ザ・シルヴァー・ブレット・バンド『Live Bullet』(1976年)

1974年9月4日、ボブ・シーガーがデトロイトのコボ・ホールで演奏した時、彼は既に8枚のアルバムをリリースし10年近く真面目にツアーをこなしている最中だったが、アメリカ中西部以外ではまだほとんど認知されていなかった。彼がライヴ・ステージの魔法をスタジオでまったく発揮することができなかったのが主な問題だった。ライヴ・アルバム『Live Bullet』がこんなにも大きな衝撃を与えたのはそのせいなのかもしれない。シーガーによるアイク&ティナの『Nutbush City Limits』のカヴァーは全米のラジオで幾度となく流され、『Live Bullet』は突然狂ったように売れていった。1973年に発売され過去40年間にわたってクラシック・ロック系ラジオの支柱であり続けた、巡業生活の厳しさについて歌った曲『ページをめくって』の人気によってさらにブームは加速した。「『Live Bullet』をリリースする前、俺たちは1年に250~300回のライヴを行っていた」と2013年シーガーは述べた。「実質1週間で5回か時には6回演奏していたことになるから、シルヴァー・ブレット・バンドと俺たちはただこのショーを熟知していただけだ」。by Andy Greene
25位 デューク・エリントン『Ellington at Newport』(1956年)

このギグはあまり期待されずに始まった。おそらく酔っ払っていたであろうバンドメンバーの4人がステージに現れず、エリントンは彼らが続けることができないと気づくまでの12分間、ジャズ・フェスティバルのトップバッターを務めた。しかし夜が更けてから彼らは大勢でステージに戻り、彼のキャリアに新しい意味を与えた曲目でジャズファンの心に火をつけた。すべてのものが『ディミニュエンド・イン・ブルー・アンド・クレッシェンド・イン・ブルー』に集約され、当時数十年が経過し古くなってしまったこのダンス・チューンが、このニューポートでテナー・サックス奏者のポール・ゴンザルヴェスによる耳のなかで震えて響き語りかけるような27コーラスの即興演奏の6分間で開花した。デュークはゴンザルヴェスに向かって「もっと高く!」と叫んだ。黒いドレスを着たブロンドの女性が踊り出し、それからたくさんの女性も踊り出した。1ヶ月後デュークはタイム誌の表紙を飾った。ビバップは大所帯のバンド音楽を陳腐に見せたが、このアルバムは熟練とは何たるかを見せつけるものだった。「俺は1956年にニューポート・ジャズ・フェスティバルで生まれた」とデュークは後に宣言した。by RJ Smith
24位 ザ・クインテット『ジャズ・アット・マッセイ・ホール』(1953年)

「かなり厄介な雰囲気だった」と、ザ・クインテットのドラマー、マックス・ローチは1953年のこのギグを振り返った。「楽屋にいた人たちと彼ら全員が抱えていた問題をすべて解決するには大勢の心理学者を集めた会議が必要だった」。天才、依存症患者、喧嘩好き、バカがいた。ピアニストのバド・パウエルは施設に入居させられて法的に「無能者」の烙印を押された存在で、サックス奏者のチャーリー・パーカーとトランペット奏者のディジー・ガレスピーも過去にいろいろあり(これは彼らにとって一緒に録音した最後の機会となる)、ベーシストのチャールズ・ミンガスは彼を怒らせるようなソロをする人間を叩きのめしたかもしれない。ビバップの独創的でワイルドな一団がやって来たので、パーカーは借り物のプラスティック製のサックスで武装した。「完全に自然に起こったことだった。その日に起こったことは」とローチは述べた。「俺たちはただステージに上がって、それらのことが起こり始めた」。彼らはビバップのスタンダード曲『チュニジアの夜』や『ソルト・ピーナッツ』の決定版だけでなく、パワー・バラード『オール・ザ・シングス・ユー・アー~52丁目のテーマ』の試作版も演奏した。この日の終わりにプロモーターがショーの録音代のギャラも一緒に支払い、ミンガスはこのアルバムがリリースされる前に自分のソロ部分を再録音することになった。by RJ Smith
23位 レッド・ツェッペリン『伝説のライヴ─How The West Was Won─』(2003年)

レッド・ツェッペリンが1970年代における最も偉大なライヴ・バンドのひとつであるのは疑う余地もない事実だが、彼らがこの時代に出した唯一のライヴ・アルバムである1976年の映画『レッド・ツェッペリン 狂熱のライヴ』のサウンドトラックはまったく迫力のないライヴを収めたものだった。ジミー・ペイジが1972年のバンドのツアーを録音した何時間にもわたるテープを吟味し、素晴らしい18曲の作品としてまとめ上げた2003年になってようやくこの状況は打開された。ゼップの海賊盤は山ほど出回っているが、バンドが複数のバージョンをひとつの曲につなぎ合わせてチートしている部分があったとしても、この作品ほど鮮明で勢いのあるものはひとつもなかった。このアルバムの目玉は、残忍な『移民の歌』や25分にわたる曲『幻惑されて』、23分の長さの『胸いっぱいの愛を』などの即興演奏である。「これがツェッペリンのベスト・コンディションだ」とペイジは2003年に述べた。「この時のバンドメンバーはそれぞれ最高の状態にある。第五元素が手に入るくらいのマジックポイントがあった」。by Andy Greene
22位 ザ・バンド『ロック・オブ・エイジズ』(1972年)

『ラスト・ワルツ』はザ・バンド作品のなかでいちばん有名なライヴ・アルバムであり、大物ゲストが多数参加したことや一時代の終わりの重々しさがあること、そしてスコセッシによる映画化などが魅力だ。その4年ほど前にニューヨークで録音されたのがこのアルバム『ロック・オブ・エイジズ』になり、最も偉大なライヴ・バンドのひとつである彼らの絶頂期が収められている。彼らは1曲目のマーヴィン・ゲイのカヴァー曲『ドント・ドゥ・イット』(リック・ダンコの意味ありげな質の低いグルーヴ感を披露するもの)から、『W.S.ウォルコット・メディシン・ショー』や『キング・ハーヴェスト』、『アンフェイスフル・サーヴァント』などのばかばかしいほどシンプルなマイナー曲まで終始熱狂し続け、ほとんどの曲にアラン・トゥーサンによるホルンのアレンジが加えられていた。オルガン奏者のガース・ハドソンによる『ザ・ジェネティック・メソッド』から『チェスト・フィーバー』での狂ったような即興演奏は、2枚組のLPの1面をほぼ使い果たすほど長く続き、サイケデリック・ロックの起源である伝説の作品である。これはテレパシーでシンクロした5人が意欲を失う前に奏でたサウンドだ。アルバム『ラスト・ワルツ』はザ・バンドが素晴らしかったことを伝える作品だが、『ロック・オブ・エイジズ』は彼らの素晴らしい瞬間を披露する作品だ。by Simon Vozick-Levinson
21位 マイルス・デイヴィス『コンプリート・ライヴ・アット・プラグド・ニッケル1965』(1995年)

1965年、残り1公演のみとツアーがそろそろ終わろうという頃、マイルズ・デイヴィス・クインテットは気の狂ったアイデアを思いついた。それは皆が自分たちに演奏してほしいと思っている曲とまったく異なる曲を演奏しようというアイデアだ。バンド(デイヴィスとサックス奏者のウェイン・ショーター、ピアニストのハービー・ハンコック、ベーシストのロン・カーター、ドラマーのトニー・ウィリアムス)はシカゴのクラブに会場入りした瞬間、公演を録音する準備をするレーベルの担当者を目にした。この素晴らしい8枚組のCDボックスセットには音楽の既成概念を覆しジャズの形態が一変する、静けさが入り混じるような2日間で繰り広げられたすべての楽曲が収録されている。トランペット奏者のデイヴィスは序盤ためらいがちであるが、終盤に差し掛かる頃にはバンドの得意分野でかなりの進化を遂げた。「こいつらが序盤で俺よりひどい演奏をしたのを聴いた時、「全力で頑張れ」って意味だと思った」とショーターは振り返った。「俺はこのバンドで一年強活動してきて俺たちは奇抜な存在だったということに気づいた。何て言うか…自由とはこういう意味なのだと」。by RJ Smith
20位 ブルース・スプリングスティーン&ザ・Eストリート・バンド『THE "LIVE" 1975-1985』(1986年)

「俺は自分に音楽史上最高のライヴ・アルバムを制作するという義務を課している」とかつて発言していたブルース・スプリングティーンは、初のライヴ・アルバムで十分に証明してみせた。彼は自身のライヴ・ショーに関する評価を確立させ、アルバムのおおまかな構成を考える段階になると、ハリウッドのジン酒場からジャージーのアリーナのライヴ、ゲットーの遊歩道にいた時代からランボー風になったブルースの歴史を網羅する40曲を収めた5枚組のLP盤(CDでは3枚組)を作るという壮大なプランを考えた。この最高のボックスセットの中核をなすのが『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』、『Seeds』、『ザ・リバー』(スプリングティーンと彼の父親、徴兵に関する深い話も語られている)、エドウィン・スターのカヴァー『黒い戦争』という曲順で続く4曲だ。「これらの4曲は今までの俺たちのアルバムで語られることのなかったさまざまなことを伝えていた」と、マネージャー兼プロデューサーのジョン・ランドーは述べた。by RJ Smith
19位 グレイトフル・デッド『ヨーロッパ72』(1972年)

グレイトフル・デッド初のヨーロッパ長期ツアーから厳選されて作られたこの3枚組のレコード盤はもともと『Steppin Out』というタイトルだった。デッドは先にリリースしたスタジオ・アルバム『ワーキングマンズ・デッド』と『アメリカン・ビューティ』で完成させた控えめなサウンドという傾向に偏っていき、脱退したミッキー・ハートの後任であるビル・クルーツマンによる見事なドラムソロとともに、キース・ゴドショーの上品なピアノによってそのスタイルを強めていった。確かに『ヒーズ・ゴーン』や『ジャック・ストロウ』、『ブラウン・アイド・ウーマン』、『ランブル・オン・ローズ』といった古風な雰囲気のある新曲を採用している点を見た限りでは、このアルバム『ヨーロッパ72』でどぎついアメリカーナの三部作が完成したと言ってほぼ間違いない。本作は観客の騒音もほとんど取り除き、ショーを締めくくるクロージング曲であるジェリー・ガルシアによる楽しい黙示録的な楽曲『モーニング・デュウ』は、ライヴ録音とスタジオ録音のハイブリットと呼んでいいほどツアー後に行った多重録音(主にヴォーカルパート)が多用されている。この最も売れたデッドのライヴ・アルバムは、1973年に他界したヴォーカル兼キーボード奏者のロン「ピッグペン」マッカーナンと作った最後の作品でもある。by Richard Gehr
18位 ジミ・ヘンドリックス『Jimi Plays Monterey』(1986年)

1967年のギターを燃やした伝説のショーで演奏されたこれらの9曲は、最初は不完全なライヴ・アルバム『Historic Performances Recorded at the Monterey International Pop Festival』として、それからボックスセット『ザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス』の約半分を含んだ驚くほど奇妙に分割されたアルバムやオーティス・レディングのアルバムとして出されたりとさまざまなバージョンが市場に出されたが、この1986年の完全版が初めて全パフォーマンスを収録したものである。ヘンドリックスがいかにしてブルースを刷新したのか(『キリング・フロア』)、いかにして彼のヒーロー、ボブ・ディランの名を呼んだのか(『ライク・ア・ローリング・ストーン』)、どんな風にガレージ・ロックのスタンダードを刺激的な追悼ソングに変化させたのか(『ヘイ・ジョー』)、そしてひとつの曲をもっと軽やかな流れに入れたり、これまでテープに保存されてきたものよりも重要で自由なノイズのコーダを作り上げる前にどうやって曲にフィードバックを多用したのか(『恋はワイルドシング』)といったすべてを示す作品だ。by Joe Gross
17位 ザ・ローリング・ストーンズ『ゲット・ヤー・ヤ・ヤズ・アウト』(1970年)

ゴールドマイン誌によると、1969年にブルース・ギタリストのミック・テイラーがザ・ローリング・ストーンズに加入し、バンドは樽に入れられた動物クズリのように互いに噛みつくようなギターによって引き起こされる新しい深いグルーヴ・スタイルを開始したところだった。このアルバム『ゲット・ヤー・ヤ・ヤズ・アウト』のコンセプトは彼らの天才的なサウンドをただ記録するというもので、キース・リチャーズの説明によると「可能な限り編集を加えないという趣旨」だったという。ライヴはバンドの各パートがいつもよりうるさく巧みに演奏され、特にドラマーのチャーリー・ワッツの演奏は未だかつてないほど自信に溢れているようだった。ベーシストのビル・ワイマンはゴールドマイン誌に次のように語った。「ストーンズは当時いたほかのバンドよりも優れたライヴ・バンドだった。俺とチャーリーは本当にいつも抜け目なく、いつも全力で、常に一緒にすべてのことを理解していた。俺たちがくそ真面目に取り組めば、すべてが上手くいった」。ローリング・ストーンズはオルタモントの1週間前に録音されたこのアルバムで、『悪魔を憐れむ歌』と『ストレイ・キャット・ブルース』のチャック・ベリーの楽曲2曲や決定版となるであろう『ミッドナイト・ランブラ-』を披露している。by RJ Smith
16位 ジェリー・リー・ルイス『Live at the Star Club, Hamburg』(1964年)

1962年にビートルズがこけら落としライヴを行ったハンブルグのクラブで録音されたライヴ・アルバム『Live at the Star Club, Hamburg』は、ロックの殿堂受賞者クラスのなかでも最も衝撃的なパフォーマンスのひとつであり続けている。ルイスが13歳の従妹と結婚したことが世間に知られ、ロック・アイコンとしての彼のキャリアが失墜した6年後、音楽的才能の絶頂期にあった28歳の時にこのコンサートは開催された。彼は2分未満の短い楽曲『火の玉ロック』を駆け抜けるように演奏し、『Whole Lotta Shakin Goin On』ではまるで彼がピアノを分解しているかのような印象を見せた。ワイルドなカヴァー曲『マネー』や『ハウンド・ドッグ』では喝采を送り続ける観客を威圧した。「ああ、あれは本当に大ベストセラー・アルバムだった」と、彼は2014年に出版された半自伝的な著書で述べた。by Kory Grow
15位 ジョン・コルトレーン『ライヴ・アット・ヴィレッジ・ヴァンガード』(1962年)

1961年11月、ジョン・コルトレーンと彼のバンドの多彩な顔触れがマンハッタンのクラブで録音を行った4日間では、アルバムに収録された3曲以外にもたくさんの音楽が披露された。後に発売されるアルバム『インプレッションズ』の収録曲の多くもこの時のギグから発想を得たものである。しかしライヴ・アルバム『ライヴ・アット・ヴィレッジ・ヴァンガード』はアルバムと呼べるものなのかとよく議論の的となっている。際限なく続くジョン・コルトレーンのソロ演奏は才気溢れる革新的なものなのか、それともあるレビューで評されていたように「ジャズの名を借りて商売を行う、音楽的につまらないもの」なのかで当時のジャズ界の意見は真っ二つに分かれていた。ダウンビート誌がこのアルバムのリリースについてコルトレーンに自己弁護するよう打診した際、彼は「ミュージシャンがしたいと思う主なことは、宇宙で自分が理解し感じているたくさんの素晴らしいもののイメージを聴き手に与えることである」と粘り強く説明した。アルバム『ライヴ・アット・ヴィレッジ・ヴァンガード』の音楽をずばり説明するとすれば、私たちは未来行きの電車であり、あなたは私たちを追いかけた方が良いということである。by Douglas Wolk
14位 サム・クック『ハーレム・スクエア・クラブ1963』(1985年)

上品なサム・クックは60年代に最もマルチな分野で成功を収めたR&Bスターのひとりである。1963年1月のこの夜、満員になったマイアミのクラブで黒人の観客のためにパフォーマンスをしながら、彼は今まで秘めていたソウルフルな一面を解き放った(彼は「抗わないで。一緒に感じよう」と観客に伝えた)。熱狂的な観客とのクックの結びつきは刺激的で、バンドの狂ったようなスイングと『パーティを開こう』や『ブリング・イット・オン・ホーム・トゥ・ミー』といった名曲のアレンジは当時ほかに類を見ないほど激しかった。RCAレコードはこの結果を彼のホップのイメージとしては強烈過ぎると考え、このパフォーマンスを封印した。そのため彼らが実際にリリースしたライヴ・アルバムは比較的抑えめな1964年の『ライヴ・アット・ザ・コパ』であった。本アルバムは最終的に20年の時を越えてリリースされ、批評家から高い評価を得るにいたった。by Jon Dolan
13位 チープ・トリック『チープ・トリックat 武道館』(1979年)

チープ・トリックは1978年の終わりまでに3枚のアルバムを発売し、『サレンダー』や『甘い罠』などの素晴らしい楽曲を多数世に出したが、まだアメリカの大勢の観客を惹きつけることができなかった。彼らは日本で絶大な支持を獲得し、ワイルドな音楽の夜をもたらすべく1978年4月に東京の日本武道館に到着した際はビートルズ並みの歓迎を受けた。このアルバムは当初日本国内のみでリリースされたものだが、アメリカのラジオ局が『甘い罠』のライヴ・バージョンを流し始め、輸入盤がかなりの高値で取り引きされるようになったため、レーベルがアメリカ国内でもリリースするという英断を下した。本作品は1979年2月に米国で発売され、『甘い罠』はHot 100チャートの7位に入り、ファッツ・ドミノの『エイント・ザット・ア・シェイム』をカヴァーした曲もラジオで頻繁に流された。「俺たちはその材料を持っていた」とギタリストのリック・ニールセンは2013年に述べた。「俺たちは可能な限りどこでも演奏し、絶えずツアーをこなし、自分たちのしていたことを理解していた」。by Andy Greene
12位 マディ・ウォーターズ『マディ・ウォーターズ・アット・ニューポート』(1960年)

世間はニューポート・フォーク・フェスティバルでエレクトリック系にシフトしたボブ・ディランの話題でもちきりだったが、マディ・ウォーターズは電子楽器の使用においてディランよりも5年は先を行っていた。フォーク回帰の風潮が高まるなか、このシカゴのエレクトロ・ブルースのアイコンはにぎやかで恐ろしいほどに力強いコンボをニューポート・ジャズ・フェスティバルで披露した。『ガット・マイ・モジョ・ワーキング』でのウォーターズの雄牛が吠えたような歌声と鋭いギター音やバンドのスイング演奏を聴いて落ち着いていられる人などいなかった。マディ自身でさえだ。彼はハーモニカ奏者のジェイムズ・コットンが十分に演奏できるようにマイクを離し観客は大歓声を上げた。フィナーレでは、ウォーターズが『ガット・マイ・モジョ・ワーキング』のせいでこれ以上歌うことができないほどに疲れ果ててしまったため、詩人のラングストン・ヒューズが即興で作詞した『Goodbye Newport Blues』をピアニストのオーティス・スパンが代わりに歌い上げた。ライヴ・アルバム『マディ・ウォーターズ・アット・ニューポート』は瞬く間に若きブルース・ロックファンのためのガイドブックとなった。キース・リチャーズやミック・ジャガーも本作品に強い関心を寄せるファンのひとりである。by David Menconi
11位 トーキング・ヘッズ『ストップ・メイキング・センス』(1984年)

トーキング・ヘッズはアルバム『ストップ・メイキング・センス』を通して、アコースティック・ギターのデヴィッド・バーンやラジカセを9人のエネルギーに溢れたファンク・マシン(パーラメントとファンカデリックのキーボード奏者のバーニー・ウォーレルやブラザーズ・ジョンソンのギタリストであるアレックス・ウィアーなどのサポート・メンバーを追加したバンド)に成長させた。「幕が開きすべてのものが舞台に上がれば、行き場がなくなるだろう」とバーンはかつて自分でインタビューの真似事をしながら語った。「(この映画は)バンドの物語を伝え、完成した時よりもドラマティックで現実味を帯びている。麻薬でハイになった60分間のようだ」。未来のオスカー受賞者のジョナサン・デミが監督を務め、バンドの自己資金で制作されたこのライヴ映画は、1983年にアルバム『スピーキング・イン・タングス』のPRのために実施された、ハリウッドのパンテージ劇場でのショー3回分を録画したテープをつなぎ合わせたものである。「大きな会場で上映する代わりに地方にある非常に小さな大学の劇場やアートシアターで上映することになったのもバンドの決断だった」と、後にドラマーのクリス・フランツがローリングストーン誌に述べた。「この作品が実際そうだったように成功した理由はただひとつ、アートシアターでの長期上映が可能だったからだ。観客は何度も劇場に足を運んだものだ」。たとえバーンの冷蔵庫並みに大きなスーツのアートワークがなくても、このアルバムはバンドがマニアックな創造性を最も発揮した瞬間を披露するものである。by Reed Fischer
10位 ニルヴァーナ『MTVアンプラグド・イン・ニューヨーク』(1994年)

ファズと爆音を取り去ったニルヴァーナはむき出しの感情そのものだった。彼らはMTVのアンプラグド・シリーズの収録でマイナー曲や厳選されたカヴァー曲をアコースティック・ギターや穏やかなドラミングそして悲哀に満ちたカート・コバーンのガラガラ声に落とし込み、彼らの短いキャリアのなかでいちばん伝説に残るパフォーマンスを披露した。スペシャル・ゲストであるアンダーグラウンド界のヒーロー、ミート・パペッツが3曲分の演奏のためにステージでバンドをアシストした(「(MTVの重役たちは)シアトルから1台のバスがやって来て、アリス・イン・チェインズやパール・ジャム、サウンドガーデンなどが皆ニルヴァーナとジャム・セッションを行う予定だと思っていた」と番組監督のベス・ミラー・マッカーシーは笑いながら話した)。だがショーを完全に支配したのは、この番組で最も神聖視された放送回を落ち着かない調子で締めくくった、レッドベリーのカヴァー曲『ホエア・ディド・ユー・スリープ・ラスト・ナイト』のアレンジを印象的だが不安定な感じで演奏した瞬間だった。チャールズ・クロスによるコバーンの伝記『HEAVIER THAN HEAVEN カート・コバーン・バイオグラフィー』で明らかにされたように、このショーが本質的に憂うつなのは芸術的に意図されてのことである。コバーンはショーのプロデューサーにセットは”葬式のような”装飾にするよう念を押していた。by Brittany Spanos
9位 ボブ・ディラン『ロイヤル・アルバート・ホール』(1998年)

このアルバムは1998年の公式リリースまでの30年間、ライヴ音源の海賊盤として出回っていたなかで最も有名なものであり、神話(ショーを妨害する観客のひとりがディランのことを「ユダ」と呼ぶと、彼は「俺はお前を信じない!お前は嘘つきだ!」と叫び返した)や根拠のない噂(本当はロンドンのロイヤル・アルバート・ホールではなくマンチェスターで録音された)の両方を生み出してきた。アコースティック・フォークからエレクトリック・ロックへのディランの転換は古くからのファンに裏切られたという気持ちを抱かせ、彼と彼の新しいバンド(ほとんどがロニー・ホーキンスのバンドメンバーから集められた)は敵意を持った観客を無理やりねじ伏せなければならなかったという伝説が広まっている。実際には当時のツアーでのほかのショーと同じようにアコースティック・セットでライヴが始まった。しかし、コンサートの半分を占めるエレクトリック・ロックの演奏中のディランは興奮して夢中になり、あらゆる汚い言葉を吐き捨てた。「これはヒ素のような音楽、それかもしかしたらパイドラー(ギリシア神話に登場する愛憎に翻弄される女性)のような音楽かもしれない」と1966年、ディランはプレイボーイ誌に語った。「フォーク・ミュージックというのは太った人間の集まりみたいなものだ」。by Douglas Wolk
8位 MC5『キック・アウト・ザ・ジャムズ』(1969年)

フラワーパワー(ヒッピーによる反体制的スローガン)は忘れて、MC5のデビュー・アルバムにおける最初の10分間の激しいメロディの爆発と比べると、この時代のほかのガレージ・ロックバンドは弱々しくためらいがちな感じに見える。「世界中の革命の音を感じたい」と、堂々とした好戦的なシンガーのロブ・タイナーはエルドリッジ・クリーヴァーの言葉を引用しながら叫ぶ。そして全員の革命の準備が済まない間、レスター・バングスが1969年にローリングストーン誌で記したように、モーター・シティ5は「アイデア不足を隠す」ためにノイズと攻撃性を利用し、このアルバムがアンダーグラウンドのロックを挑戦的なギリギリのラインまで追い込んだというのが歴史で語られるところである。今考えると古臭く感じるが、「羽目を外そうぜ、マザーファッカー!」という開始の合図はバンドのレーベルのエレクトラ・レコードを激怒させたため、レーベルは編集盤と未編集盤の両方を用意した。ピーター・ドゲットが著書『Theres a Riot Going On: Revolutionaries, Rock Stars and the Rise and Fall of 60s Counter-Culture』で伝えるところでは、未編集盤は小売チェーンのハドソンズにも送られたという。しかしハドソンズが在庫を送り返し、両バージョンの仕入れを拒否した際、バンドは全国向けの広告で「くたばれハドソンズ!」という最高のメッセージを彼らに送った。by Arielle Castillo
7位 グレイトフル・デッド『ライヴ/デッド』(1969年)

アルバム『ライヴ/デッド』は、比較的低コストで制作できるライヴ・アルバムで一バンドがスタジオ代を返済する手段として行った初の試みというわけではなかったが、いちばん成功した取り組みであると言えるだろう。ワーナー・ブラザーズに18万ドルの借金があったグレイトフル・デッドは1969年前半に初めて16トラックの移動式スタジオを使って録音を実施した。「俺たちは音楽的にシリアスで長い曲作りを追求し、それを録音したいと思っていた」と、ジェリー・ガルシアは述べた。2枚組のレコード盤『ライヴ/デッド』はレコードの一面を費やす長さの曲『ダーク・スター』から始まり、『セント・ステファン』や『イレヴン』で更なる調和を追い求め、ロン「ピッグペン」マッカーナンによるレコード一面を支配する長さの扇情的な演奏が魅力のボビー「ブルー」ブランドのカヴァー曲『ターン・オン・ユア・ラヴ・ライト』と続き、レヴァランド・ゲイリー・デイヴィスによるブルース曲から『フィードバック』、そしてアカペラ曲『グッドナイト』ですべてが締めくくられる。グレイトフル・デッドは今までに録音されたコンサート演奏の才能を効果的に宣伝するこのアルバムによって、本格的な前衛芸術家集団として、非の打ちどころのないルーツ・ミュージックの修正主義者としての両方の才能を証明し、残りのキャリアを通してその才能をステージ上で何度も主張し続けた。by Richard Gehr
6位 キッス『アライヴ!~地獄の狂獣』(1975年)

「最高のものを求めているなら、あなたはそれを手に入れた。世界でいちばん熱いバンドだ!」偉そうなオープニングの紹介からギタリストのポール・スタンレーによる観客の好きな飲み物についての冗談といったすべてが詰まった、この1975年に発売された2枚組のLP盤『アライヴ!~地獄の狂獣』は荒削りな70年代初期のキッスの作品と極限まで高められた魅力をきれいにまとめ上げていたおかげで、バンドにとって初となるトップ10入りを記録したアルバムとなった。『ストラッター』や『コールド・ジン』といったハラハラするようなグラムの名曲での力強いテイクは、どんなにたくさんの汗がバンドメンバーの化粧に毎晩染み込んでいたのかを明らかにした。どれくらいこのアルバムがスタジオで修正されたのかという意見は今日にいたるまで根強く残っているが、そんなことでこの作品の遺産的価値は下がらなかった。『アライヴ!~地獄の狂獣』は多くの続編を生み出しただけでなく、現メンバーによる2015年秋のキッス・クルーズのセーリングで本作品が完全に再現される予定だ。by Maura Johnston
5位 B.B.キング『ライヴ・アット・ザ・リーガル』(1965年)

1964年11月、B.B.キングがシカゴ南部に位置する歴史あるリーガル劇場でパフォーマンスを行った時、彼には30曲ものR&Bのヒット曲があったがポップ・チャートに名を刻むことはほとんどなかった。その日の公演を録音したキングにとって初となるライヴ・アルバムは多くの白人リスナーに受け入れられるきっかけとなり、熱狂的なブルース愛好家たちもこの作品に今まで以上に畏敬の念を示した。エリック・クラプトンがショーの準備の際に『ライヴ・アット・ザ・リーガル』を流すという噂もある。このジャンルの新参者は、素晴らしいホルン・セクションに支えられ、愛用する黒いギブソン製ギター「ルシール」で引き出した無駄のないソロで、ジャズというものをこれ以上ないほど簡潔に表現するために気品さと気概をもって各曲を演奏する、洗練されているがとにかくプロフェッショナルな人物と出会った。当時いつもそうしていたように、セットリストは『エヴリデイ・アイ・ハヴ・ザ・ブルース』から始まり、毎年300回以上のショーを行っていたツアー人間は悲嘆の感情を示すことも自慢する素振りを見せることもなかった。by Keith Harris
4位 ザ・フー『ライヴ・アット・リーズ』(1970年)

ザ・フーは1969年から1970年の大半を、彼らのロック・オペラ作品『トミー』をコンサートの大目玉として演奏するツアー巡業に費やしていた。彼らは恐れ多く力強いライヴ・バンドとなり、彼らの残忍性と同じくらい流動的だった。4人の天才がステージの各隅に立ち黄金の悪魔をともに召喚した。1970年のバレンタインデーに大学で開催されたギグで録音された『ライヴ・アット・リーズ』のオリジナル盤は3曲のカヴァー曲とザ・フーのスタンダードをアレンジした3曲を収録し、ジャケットはまさに海賊盤LPそのものと言えるデザインだった(パチパチ聴こえるノイズはケーブルの不備が原因であると説明されている)。シンガーのロジャー・ダルトリーが後に語ったように、このアルバムは「2時間45分にわたるショーの終盤であり、終盤に行ったただの即興演奏だ」。アルバム『トミー』収録曲自体は除外されているが、曲のなかのリフのいくつかは激しいプロトパンク曲『マイ・ジェネレイション』から発展した15分間の即興演奏のなかで披露されている。後にリリースされた各バージョンには少しずつ曲が追加されていき、最終的にはその夜のライヴで演奏されたほかの27曲が追加された。by Douglas Wolk
3位 ジョニー・キャッシュ『アット・フォルサム・プリズン』(1968年)

1968年のキャッシュのライヴ・アルバムはアルコールと薬物依存のスパイラルから抜け出すことに成功したアメリカのレジェンドにとって適切なタイミングでリリースされた。言うまでもなく、4年間でトップ40入りが一度もないという人気が一時的に停滞して苦しんでいた時期であった。キャッシュはフォルサムを訪れた時点で刑務所でのパフォーマンス歴が10年近くあったが、1955年の象徴的なヒット曲『フォルサム・プリズン・ブルース』に影響を与えたこの場所でキャッシュが初めて実施したライヴ録音は、まさに彼のキャリアが必要としていたものになった。1973年に実施したローリングストーン誌のインタビューで「そこは俺がグレン・シャーリーに出会った場所である」と、このフォルサムの囚人が書いた曲『グレイストーン・チャペル』についてキャッシュは語った。「あの場所は明らかに俺にとっての物事が再スタートを切った地点だ」。by Brittany Spanos
2位 オールマン・ブラザーズ・バンド『フィルモア・イースト・ライヴ』(1971年)

スリーヴにパブストビールの缶を携えたコンサートスタッフの写真が載っているオールマン・ブラザーズの『フィルモア・イースト・ライヴ』は、もしB面、C面、D面の白熱する即興演奏がなければ、ブルース・ロック中心に選曲された2枚組のLP盤になっていただろう。1971年3月、イースト・ヴィレッジにあるビル・グレアム所有の会場で録音され、その4ヶ月後にリリースされたこのアルバムは兄デュアンの指揮の下で作られたオールマン・ブラザーズ最後のアルバムである。デュアンによるコルトレーンの影響を受けた賛否の分かれるギター演奏は23分にわたる曲『ウィッピング・ポスト』に斬新な優雅さを与え、ただの長髪のブルースバカではないことを見せつける。「B.B.キングが『ライヴ・アット・ザ・リーガル』でしたことは、1曲のとにかく長い曲で壮大なメドレーみたいなものだと思う」と、グレッグ・オールマンはバンドの伝記を執筆した作家アラン・ポールに語った。「彼は一度も止まらずにショーをやり通した」。ギャラを支払わないバッファローのクラブ・オーナーを刺殺したことで投獄されてその場にいなかったツアー・マネージャー、ツイッグス・ロンドンJr.がB面でイメージされている。by Jesse Jarnow
1位 ジェームス・ブラウン『ライヴ・アット・ジ・アポロ』(1963年)

キング・レコードの創立者シド・ネイサンはジェームス・ブラウンのライヴ・アルバムを制作するというアイデアには飛びつかなかった。会社がまだ利益を生み出すための冒険ができるほど地盤が固まっておらず、当時の彼は特にシングル以外に興味を示さなかったからだ。「誰も俺たちを信じてくれなかった。会社の重役は誰ひとり俺たちを信じてくれなかった」と、盛り上げ役のボビー・バードは振り返った。「でも俺たちはクレイジーだっただろ。俺たちはその返事を自分たちのショーができなくなる意味だと理解した」。そのため、ブラウンは自己資金でショーを開催したがアルバムを自費リリースする準備まではできていなかった。ハーレムにある歴史的に有名なアポロ・シアターはたいてい水曜日にアマチュアナイトを開催していたが、「ショービジネス界一の働き者」はその時全盛期であった。持ち時間が27分しかないのに彼はふざけていた。まずフェイマス・フレイムスの機関車のようなリズムから『トライ・ミー』のような格式あるバラード曲をクールに歌い上げるなどあらゆる一面を見せた。長く自制すればするほど彼の声はより一層震え、最後には懇願し訴えかけるような叫びで会場を支配する。by Christina Lee