「俺は、みんなと少しも変わらないんだ」96年、プリンスはこう謙虚に英NME誌に話していた。

しかし残念ながら、世間はそれを認めない。
プリンスは、作曲家、ミュージシャン、パフォーマーとして、素晴らしい作品の数々をポップの歴史に深く刻んできた。そしてその輝かしいキャリアを通して、流行に逆らい、伝統を覆し、新しい流行を生み出し、そして決して世間の意見に左右されることなく、その輝く才能を発揮し続けた。その姿は、紫をこよなく愛した自然児といえる。そんなプリンスの人生は、壮大な冒険、実験、失敗、そして時折の(度重なると言うべきかな)奇行という寄り道の連続だった。その一瞬一瞬が、私たちが知るあのプリンス、そして今後も生き続ける彼の音楽を生み出したのだ。ここに、プリンスのステージ上と私生活における、最もワイルドな12の瞬間をまとめて紹介したい。

『アメリカン・バンドスタンド』で司会者の質問に非協力的な返答(1980年1月26日)

プリンスがテレビ番組『アメリカン・バンドスタンド』に初登場したのは、80年に入ってすぐのことだった。番組内でスタジオの主導権を握るプリンスからは、その先10年の方向性を伺うことができる。当時21歳で無名だったプリンスは、多くを語ろうとしない独特の雰囲気を醸し出し、番組の司会者ディック・クラークに19歳だと嘘をつき、大手レコード会社から受けたレコード契約のオファーを何度も断ってきたと話した。その理由を「自分でプロデュースさせてくれないから」と言ってのけるが、これは自慢話では決してなく、プリンスの本音であった。さらに演奏できる楽器の数を聞かれると、靴を一瞬見つめた後に「1000」と答えてみせた。番組ではゴールドラメのパンツの衣装で飛び跳ねながら、『ウォナ・ビー・ユア・ラヴァー』と『つれない仕打ち』の印象的な口パクパフォーマンスも披露している。
この時、アンドレ・シモンはリック・ジェームスを思わせるファンキーなベースパフォーマンス、デズ・ディッカーソンが”パンクの精神”と呼ばれたシド・ヴィシャスの精神を受け継いだギターパフォーマンスを見せつけている 。プリンスのさまざまな人種とスタイルが混在したバンドは、ディスコ音楽を追いやり、ポップ・ミュージックの未来を切り開くこととなった。

嫌悪感むき出しのストーンズ・ファンに立ち向かう(1981年10月9日)

プリンスのワイルド伝説12選

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世界的に有名なビッグバンドのコンサートで前座を務めることが、容易いことでないのは当たり前のことだ。しかし81年10月にプリンスが経験した、ザ・ローリング・ストーンズのファンとの対面は、特に厳しいものだった。ラインアップにはヘッドライナーのストーンズはもちろん、他にジョージ・ソログッドとJ.ガイルズ・バンドの名前もあった。しかしその日、ロサンゼルス・メモリアル・コロシアムのステージ上のプリンスは、出演者の中で最も無名だっただけでなく、唯一のスタイリッシュでファンキーな黒人アーティストだったのだ。黒色のビキニ風ブリーフにトレンチコートという衣装でプリンスが登場すると、我慢ならない観客が同性愛を中傷する言葉を叫び、食べ物や瓶を投げ始めた。ストーンズのファンたちは、かつてミック・ジャガーが中性的なスタイルだったことなど完全に忘れていたのだろう。 取り乱したプリンスは、前座2日目のパフォーマンスをドタキャンしようと考えたが、立ち向かうことに決めた。当然、前日と同じことが繰り返されてしまった。しかしプリンスは、この時の観客を含め自分を誤解する人がいるからといって、ポップの世界で影響力ある曲を作ったりパフォーマンスをするという探求を、止めたりしなかった。2006年の英ガーディアン紙の記事には、プリンスの次の言葉が記載されている。
「俺の音楽について全てを知っているのは……俺だけなんだ」
ジェームス・ブラウン&マイケル・ジャクソンと即興共演(1983年8月20日)


80年代のプリンス最大のライバルといえば、マイケル・ジャクソンだ。またジェームス・ブラウンは、プリンスが自分の真似だと言い、ネガティブなコメントをしたことがあった。そんな3人が、83年に驚きの共演を果たしている。それはハリウッドのビバリー・シアターのステージに立つジェームスが、ジャムセッションをするために、マイケルとプリンスを順にステージに上げたことで実現した。「プリンス、何かやらなきゃ!」ファンクの帝王がこう命令すると、その頃既に人気を博していたプリンスは、ギターを受け取り、ジェームスに従ってみせた。そしてご満悦に笑うジェームスが見ている中、プリンスはジミ・ヘンドリックスとキャットフィッシュ・コリンズが融合したかのような、ファンキーでクレイジーなリズムのギターパフォーマンスを披露した。途中で上半身裸になり、アクロバティックな足さばきとクールでセクシーな動きを見せつけるその姿は、ファンクの帝王ジェームス・ブラウンよりもファンキーだった。ジェームスからプリンスへの世代交代が実際に行われていたならば、それは意図的であろうとなかろうと、この瞬間だったように思える。


米PMRCの『Filthy 15(不快な 15曲)』リストで1位獲得(1985年)
プリンスのワイルド伝説12選

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ティッパー・ゴアが音楽検閲組織である ペアレンツ・ミュージック・リソース・センター(PMRC)を創立したのは85年のことだが、これは彼女が性的な描写のあるプリンスの『ダーリン・ニッキー』を聴いている11歳の娘を目撃したことがきっかけだと言われている。後のセカンドレディであるティッパーは、レコード業界にPMRCが選定した「Filthy 15(不快な15曲)」を主に使い、楽曲を検閲することを求めた。しかしこの計画は、裏目に出てしまった。というのも、80年代の自尊心を持つ子供たちが、逆にリストの曲全てを聴かないわけがなかったのだ。
プリンスはというと、『ダーリン・ニッキー』がリストの1位を飾り、作曲したシーナ・イーストンの『シュガー・ウォールズ』が、その女性器の詩的な隠喩が問題となり2位にランクインするというように、見事に2曲でランキング入りを果たした。(またプリンスの元恋人ヴァニティの『ストラップ・オン・ロビー・ベイビー』は、4位に食い込んでいる。)ヘヴィメタル・バンドがリストの大半を占める中で、プリンスはジューダス・プリースト、マーシフル・フェイト、ヴェノムらを差し置いての上位ランクインとなったのだ。しかし宗教心を持つプリンスはというと、後に英NME誌に肉体的な快楽について次のように否定している。「俺は行き過ぎた行動、ドラッグ、セックス、アルコールへの道を知ってる。その全部の経験はファンキーなものかもしれない。かなりファンキーなこともある。でもね、それはただの通り道や脇道であって、答えじゃないんだ」
ベッドルーム一室が蝶々の聖域になっている。(1985年)
プリンスのワイルド伝説12選

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プリンスの奇行は、他の多くのポップスターがそうであるように、名声と富を獲得するにつれて悪化した。プリンスの奇行はというと、ちょっとした不思議な行動であったり、全くの超世俗的なものであったりした。85年にミネアポリスをツアーでまわっていたプリンスに、ローリングストーン誌がインタヴューを行った際には、10代の頃から泣いたことがないといった、ちょっとしたエピソードを聞くことができた。しかしそのインタヴューで最も注目をさらった瞬間は、ゲストルームの一室が蝶々の聖域になってることが明らかになった時だった。
なんと部屋の中央に、笑みを浮かべた黄色のガーデン・ノームが置かれていたのだ。それも同記事によると、ノームは「蝶々の群れ」で覆われいて、そのうちの一匹は、「ノームの胸元のハート形の穴から飛び出していた」という。それなのにプリンスは平然と、その魔法のような光景を一笑に付すかのように、「仲間がくれたから、リビングに置いてたんだ。だけど怖いって言う人がいるから、そこに移動させてみた」と話している。

お尻丸見え衣装でVMA授賞式パフォーマンス(1991年9月15日)

90年代に入った頃には、プリンスがステージ上でセミヌードを披露するのは、定番の光景となった。というのも、プリンスは80年代を上半身裸で過ごしたも同然だったからだ。しかし、91年のMTVビデオ・ミュージック・アワード(VMA)では、それ以上のことをやってみせた。穴あきの黄色のジャンプスーツという衣装で登場したプリンスは、アルバム『ダイアモンド・アンド・パールズ』からのヒット曲『ゲット・オフ』の7分バージョンをパフォーマンスした。そして途中で一回転し、お尻の部分がくり抜かれた衣装から、お尻をお披露目してみせたのだ。この瞬間、プリンスは「ベイビー、見せてあげるよ。俺はセンスある男なんだ」と歌っている。それから5年後の英NME誌のインタヴューで、「セクシーであるには自由でなきゃいけないって気付いたんだ。
セクシーであるってことは、説明できないくらいかなり自由なことなんだ」と話していることからも、プリンスがテレビの前でお尻を振って見せたことを理解できるのではないだろうか。結局のところ、『戦慄の貴公子』で「人は俺を下品と言う/全員がヌードだったら良いのに」と歌った男なのだから。
顔に「奴隷」の文字を書く&読めないシンボルマークに改名(1993年)
プリンスのワイルド伝説12選

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「顔に”slave(奴隷)”って書いてたから、俺が狂った馬鹿なヤツだって世間は思ってるらしい」プリンスが96年に、こうローリングストーン誌に話したことがある。「でも自分がしたいことができない俺って、いったい誰なんだ?」これこそ、プリンスが問いかけていた自己分析の質問だ。しかし皮肉にも、プリンスは92年のアルバム『ラヴ・シンボル』の収録曲『マイ・ネーム・イズ・プリンス』をアルバムのファーストシングルにするかしないかで、当時所属していたワーナー・ブラザーズと対立している。レーベルとの数々の意見の食い違いを経験したプリンスは、「slave」の文字を頬に書いてステージに立ち、さらにはアルバム『ラヴ・シンボル』のジャケットの謎めいたシンボルに改名したことを発表する。これらの行動は、我慢ならないレーベル支配からの解放を求める、プリンスの過激な反抗であった。また大企業の支配に社会が反抗するグランジの時代、プリンスのこれらの行動は騒動を引き起こすことになった。「夢見る男から夢を奪うと、その男は奴隷になるんだ。俺がそうだった。俺はプリンスの音楽の所有者じゃないんだ。自分の作品を所有してないってことは、つまり君は所有者の支配下にあるってこと」プリンスはローリングストーン誌にこう話していた。
2000年に名前を元の”プリンス”に戻したが、この改名事件は既にポップカルチャーの伝説となっていた。

独身プリンス、魅力的な女性を探す(1993年)
プリンスのワイルド伝説12選

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2度の結婚、そして長年にわたって数々のコラボレーターたちとの関係を持ったプリンスは、ありとあらゆる視点からセックス、色欲、愛について歌った。それなのに、93年にアメリカ国内と海外のいくつかの新聞に、ぼやけた顔写真と「結婚相手にふさわしい独身男性が、一緒に休暇を過ごしてくれる世界一美しい女性を探しています」という謙虚なリクエストを添えた恋人募集広告を出す必要があったのは、なぜなのだろうか?ロイター通信によると、プリンスのかつての友人が「おそらくロマンスを少しと、クリエイティヴなインスピレーションを与えてくれる女性探していたのでしょう」と意見しているようだ。
「エホバの証人」に改宗し、布教活動を実施(2001年)

プリンスのワイルド伝説12選

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「誰も神を信じなくなってしまったから、のけ者になった気がする」これはプリンスが英NME誌に話した言葉だ。この発言から5年後、プリンスはスライ&ザ・ファミリー・ストーンの元メンバー、ラリー・グラハムとの長い話し合いの後に、エホバの証人に改宗している。これは、セックスシンボルとして知られたアーティストにとって、そのイメージに反する行動であった。それまでにもスピリチュアルな考えを言及してきたプリンスではあったが、2001年にラリーと一緒に一軒一軒訪問する布教活動を行ったことが、改宗という意外な道へと導いたのだ。ミネソタ州イーデンプレーリーに住むあるユダヤ人の家族が、ミネアポリス・セントポールの地元紙スター・トリビューンに、よりによってヨム・キプルの日(贖罪の日)に、玄関先に2人のミュージシャンが立っていたという当時の様子を振り返っている。「2人はエホバの証人について話し始めました」家族の一人はこう記憶している。「それで、”あのね?あなたたちが訪問してるのは、ユダヤ人の家ですよ。興味はありません”と伝えました。すると[プリンスが]”話を最後まで聞いてくれるかな?”と言ったんです」

英タブロイド紙の付録でニューアルバムを無料配布(2007年)
プリンスのワイルド伝説12選

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プリンスと音楽業界は度重なる争いを繰り返したものの、2000年に入るとその関係は少しばかりか修復されたように思われていた。しかし2007年、英タブロイド紙デイリー・メールがプリンスと提携し、ニューアルバム『プラネット・アース~地球の神秘~』のCDを200万人の読者に付録として無料配布すると発表すると、再び対立が勃発した。しかもこの無料配布は、同アルバムの公式リリースより約1か月先行して行われるというものだったのだ。デイリー・メイル紙に掲載された付録の宣伝記事で、プリンスはその理由を「俺の音楽と言葉を、可能な限り多くの人に広める方法なんだ。こういう直接的なマーケティングは、大変な時期を迎えてるレコード業界の投機ビジネスに、俺が従う必要がないことを証明することになる」と説明していた。当時プリンスが所属していたコロンビア・レコードは、無料配布について知らされておらず、この騒動はレーベル側が同アルバムの英国でのリリースを中止するという仕返しで、さらなる盛り上がりを見せることとなった。
哲学的なアプローチでストーカーを撃退(2008年)
プリンスのワイルド伝説12選

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2008年、プリンスが接近禁止命令を出さずしてストーカーを対処したというインタヴュー記事が、米ニューヨーカー誌に掲載された。「ある女性がペイズリー・パークに来て、外のブランコに座ってるってことがよくあったんだ」記事の中でプリンスは当時をこう回想している。「ある日外に出て、”やあ、中にいる仲間はみんな、君がストーカーだから警察を呼ぶべきだって言ってる。でも俺はそうしたくないんだよね。だから、君の希望を教えてもらえるかな。なんでここにいるの?どういう結末が希望?”って話しかけたんだ。彼女は僕の質問に全く答えれなくてね。結局、見てもらうことだけが希望だったみたい。俺に見て欲しかったんだね。彼女は去って行って、それから戻ってくることはなかった」。プリンスが英NME誌に話したという、次の発言も忘れてはならない。「人は俺を魅了するんだ。みんな素晴らしい!人生は俺を魅了してる!俺は、他の人の人生に魅せられるほど、自分の人生には魅せられてないんだ」。プリンスのストーカーに対する哲学的なアプローチは、効果抜群だったようだ。

「インターネットの時代は完全に終わり」と断言(2010年)
プリンスのワイルド伝説12選

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プリンスが、ほとんど全てのことに対して洞察力を持ったアーティストだったことは、疑いの余地はない。しかしインターネットについては、そうではなかったようだ。作曲、レコーディング、ファッション、パフォーマンスのパイオニアであるプリンスだが、サイバースペースに対応することはできなかった。ソーシャルメディアの活用に何度も失敗したプリンスは、2010年に英ザ・ミラー紙に次のように話している。「インターネットの時代は完全に終わり。インターネットってMTVみたいなものなんだ。MTVは一時期、流行最先端だったけどさ、いきなり時代遅れになったでしょ。とにかく、コンピュータとかデジタル製品は役に立たない。頭の中を数字でいっぱいにするものなんて、良いわけない」。プリンスはインターネット生活から早々と撤退し、またジェイ・Zの月額定額制サブスクリプション型のタイダルの共同オーナーとなり、音楽をストリーミングすることを止めた。このようにインターネットに精通していなかったということも、プリンスの魅力の一つだ。
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