ユーバンクスが今も脱走中という事実と向き合わなければいけない立場にあるサイラーは、夜な夜な頭を悩ませている。
もともとユーバンクスは、1965年11月に起きた当時14歳の少女に対するレイプ未遂および殺人事件で死刑を宣告されていた。だが1971年、アメリカ最高裁判所は死刑が憲法に違反するとして、彼の刑を仮出所なしの終身刑に切り替えた。
彼が一生塀の中で暮らす生活まんまと抜け出したのは1973年12月7日。この日彼は、刑務所内での素行が良かったとしてオハイオ州コロンバスにあるショッピングモールへクリスマスの買い出しを許可された。待ち合わせの時間になっても看守のもとへ戻らなかった彼は、そのまま行方不明となった。
脱走から45年が経過したにも関わらず、サイラーをはじめとする連邦保安官たちは、現在75歳になっているユーバンクスを連邦保安局の重要指名手配リストに載せ、捜索を強化した。2018年12月7日、彼は脱走から45年目を迎えた。サイラーと連邦保安局は、重要指名手配リストに載せたことで彼の存在があらためて注目され、何十年も白昼の下で暮らしているであろう逃亡中の殺人犯が突き止められると期待している。
もしかすると、ユーバンクスはアートや音楽、武道の愛好家として知られているかもしれない。あるいは、彼の右上腕部にある原因不明の大きな傷に気づいた人もいるだろう。
レスター・ユーバンクスは22歳当時、既に性犯罪の逮捕歴があった。同じくオハイオ州マンスフィールドに住んでいた14歳のメアリー・エレン・ディーナーを殺害。
1965年のマスフィールド・ニュースジャーナル紙の記事によれば、14歳のディーナーと12歳の妹ブレンダ・スーはその日の夜、地元のコインランドリーで家族の洗濯物を洗っていた。小銭が足りなくなったため、姉のメアリー・エレンは10セント硬貨と5セント硬貨を手に入れようと別のコインランドリーへ向かい、そこでユーバンクスと鉢合わせになった。ユーバンクスは彼女に性的暴行を加えようとし、2度発砲。さらにレンガで殴打した。彼女の死体はそのまま放置され、手のひらからは小銭がこぼれ落ちていた。のちに心神喪失を主張するものの、ユーバンクスは殺人を認め、刑務所に送られた。
殺人事件はディーナー一家に大きな傷を残した――聡明でおとなしい10代の娘の死を悼むのだから当然だ。報道によれば尼僧になるのが夢だったという。だがユーバンクスの逃亡のほうがはるかに恐ろしいものだった。メアリー・エレンの姉であるマートル・カーターは当時18歳、既に結婚していた。
彼女はローリングストーン誌の取材に対し、ユーバンクスの逃亡が家族に与えた代償をこう語った。「考えられる最も強い言葉で言うならば、私たちは心に傷を負わされたのです。私たちは、もう終わったと思っていました。それが突然、彼はまずクリスマスの買い物に出かけーーこのこと自体もショックですがーーそして脱走したのですから。母はすっかり気が動転していました」
脱走するまで、ユーバンクスは収容期間中ずっと模範囚で通っていた。例えば1972年、まだ死刑囚だった彼は、コロンバス・ディスパッチ紙の囚人アート特集で、大々的に取り上げられた。記事の中で彼は「死刑囚の中で最高の画家」だと称えられた。彼は三枚扉の祭壇の内側に、反体制活動家アンジェラ・デイヴィスの肖像を描いていた。
同年ユーバンクスは死刑から免罪。彼はコロンバスにあるグレートサザンショッピングセンターへクリスマスの買い物に行くという特権を手に入れた。囚人にある一定の信頼を与えることが彼らの更生を後押しするだろうと期待してのことだった。1973年のコロンバス・ディスパッチ紙の記事によると、10日間の間にユーバンクスを含む3人の受刑者が脱走したのをうけ、このプログラムは大幅に縮小された。
「この男がのこのこ立ち去ったという事実だけでも、お笑いぐさです」。サイラー保安官補は当時の非常識な状況を指摘した。有罪判決を受けた殺人犯が、ショッピングモールで休日のお買い物、それも付き添いなし。だが保安官補は、ユーバンクスがそもそも特権を認められたことに疑問を感じているーー脱走の機会を狙って、塀の外に出るために周到に計画していたのではと考えているのだ。
「彼は2~3年前から準備を進めていたはずです」と、サイラー保安官補はユーバンクスが刑務所で贔屓にされていた点について語った。「看守をうまく操り、刑務所内のシステムを利用して、自分を良い人間に見せかけたのです。
脱走後、ユーバンクスは1970年初期の新しい時代の波に消えていった。噂によれば、ミシガン州へ向かった後、ロサンゼルスへ行ったと見られる。当局では、彼がヴィクター・ヤングと改名し、サイラー保安官補がいうところの「仲間たち」から協力を得て、新たな人生と自由を得たものとみている。本腰をあげてユーバンクスの捜索が行われるまでに、さらに20年の月日が流れた。
90年代初頭、マンスフィールド警察署のジョン・アークディ警部がこの事件に興味を示したことで、再び警察の目は事件に向けられた。殺人事件が起きた当時アークディはまだ高校生だったが、彼は純粋に好奇心から事件を調べ始めた。事件の現場がコロンバスで、彼の管轄外だったためだ。まずNCIC(全米犯罪情報センター:膨大な犯罪データーベースがある)を洗ってみると、ユーバンクスは指名手配リストにすら載っていないことが判明した。
つまり、ユーバンクスがスピード違反やその他軽犯罪で捕まっても、脱走囚としての記録が見つからないのだ。「あれから20年も経っていたのに、誰もが覚えている事件はほったらかしだったんです」。現在既に引退しているアークディ氏はローリングストーン誌の取材に対してこう答えた。
警察の無関心に面食らったアークディ警部は、TV番組『アメリカズ・モスト・ウォンテッド』にコンタクト。1994年にユーバンクの特集が放映された。「情報提供の数に圧倒されました」とアークディ氏は振り返る。番組のオンエア後、200件近い情報提供があったそうだ。さらに驚愕の事実として、逃亡者は北カリフォルニアで暮らしているーー少なくともある時期は暮らしていたーーとの通報があった。
アークディ警部はロサンゼルス警察のティム・コナー刑事とともに捜査にあたり、ユークリッドが番組放映直前までカリフォルニア州ガーデナのQuality Quilters社のマットレス工場で働いていたらしいとの結論に達した。にもかかわらず、2人は彼を捕らえることができなかった。「おそらく我々はある時期、かなり近いところまで彼に近づいていたと思います。ですが、情報提供やテクノロジーが十分でなかったため、逮捕までには至らなかったのです」と、コナー氏はローリングストーン誌に語った。
「ヤツはとても賢い。バカじゃありません」とコナー氏は付け加えた。「彼は40年以上も当局の目を逃れてきた。
状況からみて、以来彼はこれまで同様逃亡生活を続けているとみられる。この記事を書いている時点でも、サイラー保安官補のもとには連邦保安局の重要指名手配リストを見て、様々な州から情報が寄せられているという。フロリダ州、ジョージア州、アラバマ州、カリフォルニア州、オハイオ州。これだけでもほんのひと握りだ。だが、彼が待ち望むのは1本の電話ーー逃亡者の居場所と時間を結びつけ、逮捕にこぎつけることのできる1本の電話。そう願うのは彼一人ではない。
「何年もヤツのことを考え続けてきました」とコナー氏も言う。「彼はおそらく今も生きていると思いますよ。また何人かは、彼が何者で何をしたのか知っているでしょう。まだ通報していないというだけでね」
被害者のメアリーの姉、マートル・カーターは長いこと、出来る限り自分の人生を謳歌することに努めてきたーーだが妹の殺人事件の影響で、自分の子どもたちからは決して目を離さないようにしている。「事件のせいで私の人生がボロボロになったとは思わないでください。事実、そうではありませんから」と彼女は言う。「私はキリスト教徒です。神を信じ、神の導きに従って生きています。自分の力が及ばないことにクヨクヨしても仕方ありません。事件でボロボロになってはいませんが、犯人がいまだ見つかっていないということは気がかりです。妹の無垢な人生を奪った男がいまだ自由の身だということが、心にひっかかっています」
それはサイラー保安官補にも同様だ。ひとつには、彼の考えではユーバンクスが単独行動ではなく、彼の犯罪歴を知ってか知らずか、協力者がいると思われるからだ。保安官補は、ユーバンクスが結婚して、子どもや孫もいると考えている。だがそれはそれで悲劇だと、サイラー保安官補は言う。「悲しいかな、彼が手に入れた家族もまた被害者なのです。彼らは何も知りません。我々が玄関のドアをノックしてその人物を捕らえたとき、家族も被害者となるのです。胸が痛みます」